信長は討ち死と書いた史料もある
江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵の著作『信長記』(『信長公記』より史料的価値は低いとされる)には『信長公記』と同様、本能寺には「女房達(侍女のこと)、下女」が付き添っていたとあります。そうした女性たちに対し、信長は「女は苦しかるまじいぞ、急ぎ出でよ」(女たちは構わぬ。急ぎ逃げよ)と脱出を促したのでした。
『信長記』によると、信長はその言葉を「三度」も発したとのこと。『信長公記』には三度までとは書かれておらず『信長記』の方が信長の女性たちを逃がしたいとの想いが強調されています。
『多聞院日記』(戦国〜江戸初期の興福寺多聞院院主の日記)にも信長の死について記されていますが、それは信長が京都において「生害」(自害)したと極めて簡潔です(天正10年6月2日条)。
『蓮成院記録』(興福寺蓮成院の僧侶らが残した記録)は『多聞院日記』よりは詳しく信長の死を記録しています。信長は京都本能寺において「御生害」した。その時、信長側には近習の者14、15人しかいなかった。同書はそれをもってして、信長は日頃、用心していたが、運が尽きたためであろうか、この時は「御油断」していた。信長が「御腹」を切ると「御殿」に火が掛けられたと言います(天正10年6月2日条)。
さて、公卿・山科言経の日記『言経卿記』(6月2日)には、信長は討死したと書かれています。これまで見てきた諸書は自害と書かれていましたが、同書は討死と書かれているのでした。
フロイスが考えた「光秀の動機」
日本の史料のみならず、外国人の著した書物にも信長の最期が記述されています。その1つが、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』です。来日したフロイスは信長や秀吉と会見しています。ちなみにフロイスは光秀謀反の理由を「過度の利欲と野心が募りに募り」「天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもしれない」と光秀の野心に求めています(いわゆる野望説を採っています)。
同書によると、事情を知らされていない明智軍の兵士たちは、信長の命令で徳川家康を殺しに行くものと当初、考えたとあります。しかし、到着したのは信長が宿泊する本能寺という「一大寺院」でした。本能寺を「三千の兵」でもって包囲した光秀。「御殿」の前で騒ぎが起こり、まもなく銃声が響きます。本能寺から上がる火はフロイスらのいる南蛮寺(教会)からも望まれたようです。
手や顔、身体を洗っていた信長に明智軍の兵士は矢を放ちます。矢は背中に当たりますが、信長はその矢を引き抜くと、長槍をもって敵兵と戦います。信長はしばらく戦っていましたが、腕に「銃弾」を受けると、自分の部屋に入り、戸を閉じ「切腹」したとフロイス『日本史』は記しています。