看護婦の地位向上のため働いた

大関看護婦会は大正時代に全盛期を迎える。

和は一流の看護師十数人を抱え、そのうち約3分の1を内弟子として住み込ませ、生活全般から看護の専門知識までを教え込んだ。さらに妹とその次男を呼び寄せて家事を任せ、弟の遺児も引き取った。一郎は、多くの人に囲まれた賑やかな環境のなかで成長することになる。

1894年(明治27)、知命堂病院に産婆看護婦養成所が開設され、講師となった大関和(前列左端)
写真提供=医療法人知命堂病院
1894年(明治27)、知命堂病院に産婆看護婦養成所が開設され、講師となった大関和(前列左端)

和は、実の子どもたちに十分に手をかけられなかった埋め合わせをするかのように、一郎をとてもかわいがった。しかし、反抗期を迎えるころには手を焼き、かつての教え子の鎌倉の家に寄宿させ、そこから海星中学へ通わせることにする。

それでも一郎の奔放さは収まらず、和に時計を買わせたり、服を仕立てさせたりしたかと思えば、気に入らないものは売り払うこともあったという。

その後、一郎は和に学費を負担してもらい、明治学院へ進学。そして1932(昭和7)年、彼が卒業を迎えた年に、和はその生涯を閉じた。73歳だった。

葬儀の日に、本郷弓町一丁目26番地(現・文京区本郷1丁目)の大関看護婦会に届けられた花輪は本郷春木町(現・本郷3丁目)の坂の上まで数百メートルにわたって並べられたといわれ、訃報はラジオでも流れた。

和の死後、孫は後悔を語った

後年、一郎は祖母との関係を振り返り、こう語っている。「私が両親を亡くしてから、祖母はいっそう私を溺愛したようで、周囲からは目に余るものがあったと思いますし、私自身もそのことによって損なわれているとも思います」「祖母はなんといっても私に宗教心のないのを心の中では不満に思っていたようです」「あんなに心から愛してくれた祖母に対して、何の報いもできなかったことを悔やんでいます」。

近代看護の礎を築いた大関和だが、密かに叶わなかった願いがあり、寂しさや葛藤を抱えながら生きた家族もいた。人生はつねに光と影を併せ持つことを忘れてはならない。

・参考文献
尾辻紀子『近代看護への道 大関和の生涯』新人物往来社、1996年
村上信彦『近代史のおんな』大和書房、1980年
亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年
田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論新社、2023年
土曜会歴史部会 編『日本近代看護の夜明け』医学書院、1973年
西條敏美『理系の扉を開いた日本の女性たち ゆかりの地を訪ねて』新泉社、2009年
青山誠『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』角川文庫、2026年
相馬黒光『穂高高原』女性時代社、1944年
篠田鉱造『明治百話(上)』岩波文庫、2010年
田中ひかる監修『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』平凡社、2026年
亀山美知子 『近代日本看護史 3(宗教と看護)』ドメス出版、1985年
高橋政子 『写真でみる日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』医学書院、1984年
高橋政子「大関和のこと(補遺)」『看護教育』 22(9)(252)、医学書院、1981年9月
高橋政子、桑野タイ子、岡部喜美子「”覆刻版;実地看護法をめぐって”」『看護研究』8(1)(29)、医学書院、1975年1月
大関和と鈴木雅の人生』メディアソフト、2026年
『看護実践の科学』3(6)看護の科学社、1978年6月

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