娘は20歳で死去、和のトラウマに
そしてこの年の6月、和は娘の心を突然、病で亡くした。母親らしいことも看護師らしいこともできぬまま、たった20歳で夭逝してしまった心に対し、和の悔恨はいかばかりだったろうか。他人にいくら「異日、ナイチンゲールとならん」(『東京婦人矯風会雑誌』)と褒められても、娘ひとり救うこともままならなかった事実は深く突き刺さったことだろう。後年、和は心の話題は極力避けていたともいわれている。
翌1901(明治34)年、和に再び結婚話が持ち上がった。相手や詳しい事情は伝わっていないが、この話も周囲の反対によって実現することはなかった。「どうか、どうか私の希望を邪魔しないで下さいまし、後生一生のお願い、この通りです」と涙を流して訴えたという逸話からも、和がこの結婚に強い思いを抱いていたことがうかがえる。このとき、43歳。多くの困難を乗り越えてきた和だったが、一人の女性として望む人生を手にすることは、なかなか叶わなかった。
この年、創始者だった鈴木雅(桜井女学校附属看護婦養成所の同窓生で元同僚)が「東京看護婦会」を退くと、和は会頭となる。内紛や同業者の妨害に遭いながらも奮闘し、1903(明治36)年には「東京看護婦会講習所」に通信講座部門を設置するなど、多忙な日々を過ごした。
息子は医師になろうとして挫折
このころ息子の六郎はといえば、文学を断念して医術開業試験に挑んだが不合格が続き、やがて家に閉じこもるようになった。偉大な母の陰で、自身の生き方を見いだせなかったのかもしれない。
六郎の息子、一郎から聞き取りを行った高橋政子は、和には包容力や広い視野がある一方、母性的な愛情に乏しく、子育てを祖母らに任せて社会活動を優先したと評している(「大関和のこと(補遺)」)。
猪突猛進にキリスト教精神で突っ走る和が、一番身近な家族に対するケアを十分に果たせなかったことは少し皮肉な感じもする。もっとも、当時は女性が社会活動と家庭を両立すること自体が困難だった。男性であれば家庭を顧みず仕事に邁進しても問題視されにくかった一方で、女性が同じように活動すれば、母性の欠如として批判されがちだったことには注意が必要である。


