東側から西側へ、約300万もの人が流出
一方で、アメリカ・イギリス・フランスが資本主義で統治した西側では、企業の競争によって高品質かつ消費者のニーズに合うものが作られていった。
また、復興のためにアメリカから強力な経済援助が行なわれたため、インフラをはじめとする人々の生活基盤が急速に整った。
こうしたいきさつで、東ドイツと西ドイツには、埋めがたい経済格差が生じた。
互いの状況をまったく知らなければ、「まあ、こんなものか」と過ごせたかもしれない。しかし、もとは同じ国だけあって、情報は入る。
その結果、戦後から1960年代初頭にかけて、貧しい東側から裕福な西側へ、約300万もの人が流出した。その半数以上は、同じ市内で東西の行き来ができたベルリンを経由し、西ドイツに入るというルートだった。
焦ったのは東側だ。人がいなければ、そもそも国が成り立たない。状況は深刻で、医師・看護師の出国で病院は閉鎖寸前。水道などの公共設備すら、市の係員の逃亡で不具合続出だった。
数時間のうちに155キロメートルの壁
そのとき誰かがひらめいた。西ベルリン、入れないようにしよっと。
実現方法は、とんでもない力技だった。
人が寝静まった夜、ほんの数時間のうちに街に壁を造ったのだ。
人がいない田園地帯などは、コンクリートでなく有刺鉄線の部分もあったが、それでも全長155キロメートル! 西ベルリンはすっぽり覆われ、たまたま遊びや仕事で出かけただけの人すら、反対側に帰れなくなってしまった。
この「壁」は、その後28年の長きにわたって東西ベルリンを分断し続けた。よじ登ったり、壁の地下を掘ったりして逃げた人もいたが、見つかれば逮捕や射殺が待っていた。
ちなみに、1964年に地下道で57人が脱出した出来事は、計画に加担した人々の間で「トーキョー作戦」と呼ばれている。1964年といえば、そう、同年開催の東京オリンピックにちなむ隠語だ。
いずれにしても、東ドイツの人々は、壁の存在や東西の経済格差に不満を募らせていった。1989年には、政府が選挙結果を操作したことで大規模な反政府デモが起き、旅行の自由化が求められた。
当時は、たとえ旅行であっても国民が西側に行かないよう、政府が制限をかけていたのだ。さらにいえば、東ドイツの場合、同じ共産圏である東欧諸国への旅行も自由ではなく、許可や制限を伴うことが多かった。
国民による反政府デモが勢いを増すにつれ、彼らに対応する役人たちは疲れ切っていった。

