創造する力は才能じゃない、余白で伸ばせる
日本の昔ばなし「桃太郎」を思い出してみてください。
絵本のイメージに慣れていると忘れがちですが、昔ばなしの「桃太郎」には、ほとんど決められた絵になるような描写がありません。
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。
おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
ここには、山の形も、川の色も、家の造りも出てきません。桃太郎の服装も、「きびだんご」の見た目も、鬼ヶ島の鬼の顔も、ほとんど説明されません。
その代わりに、子どもの側でどんどん設定が生まれます。
山はうちの近くのあの山かもしれない。川はこの前行った川かもしれない。鬼ヶ島は、地図のどこにもない不思議な場所かもしれない。
リュティが言うように、昔ばなしの舞台は「どこでもない、どこにでもありうる場所」として語られるため、子どもは自分の経験や感情を自由に使って、物語の世界を組み立てられるのです。
「桃太郎」が子どもにとってただの英雄物語ではなく、「もし自分だったら、どんな仲間を連れていくだろう?」と、物語を自分なりに変形して遊べる“型”にできるのは、この抽象性ゆえです。
子どもたちが、自分の言葉やイメージで物語を語りなおす姿を見てきて、創造性が育つのを実感しています。
かくいう私も三歳で祖母仕込みの「桃太郎」をそらんじるようになってからずっと「桃太郎」をその時々で語りなおして生きてきたように思います。
現実ではありえないことに触れると起きること
世界の昔ばなしにも、リュティが指摘した特徴と「生み出す力」を育てる要素が色濃く表れています。
たとえばグリム童話の「ブレーメンの音楽隊」を見てみましょう。
年老いたロバや犬、猫、にわとりが、「もう役に立たない」と言われて家を追われ、ブレーメンを目指して旅に出るという筋書きです。ここでも動物たちの見た目や表情の細かい描写はほとんどありません。
にもかかわらず、子どもはロバの背中の重たさ、夜道の心細さ、泥棒を追い払う場面の痛快さを、自分なりの映像として思い描きます。
さらに、「動物がしゃべる」「音楽隊になって暮らす」といった、現実では起こりえない展開も、昔ばなしでは当たり前のように起こります。
こうした常識では考えられない物語を楽しむ経験が、子どもにゼロイチを生む力を育てるのです。
リュティは、昔ばなしを現実世界をつくりかえ魔法をかけた世界だと考えていました。そこでは、カエルが王子になったり、死んだ人が生き返ったり、年老いた動物が音楽隊として新しい人生を始めたりします。
この“ありえない飛躍”に何度も触れることで、子どもは「目の前に見えている世界がすべてではない」という感覚を自然に身につけます。


