恒興三男は秀吉の養子だったが…
実は、恒興は秀吉とも姻戚関係がある。恒興の三男・池田藤三郎長吉が本能寺の変の前年の天正9(1581)年に羽柴秀吉の養子になっているのだ(秀吉が天下を取ると池田姓に復して1万石の大名に取り立てられる。だが、関ヶ原の合戦では兄・輝政に従って徳川方につき、因幡鳥取藩6万石を与えられた)。
当時、秀吉と恒興は非常に似た境遇に置かれていた。養子に迎えた信長の実子(秀勝、信房)に居城(長浜城、犬山城)を預け、西国(播磨、摂津)に新たな拠点を築きつつあった。秀吉とすれば、次世代のエース・元助を抱える池田家と関係強化を図りたかったのだろう。しかも、新拠点は隣国同士である。
さらに本能寺の変後、秀吉は「中国の大返し」で姫路に戻り、恒興と光秀討伐について会談すると、「豊臣秀次をもって信輝(恒興)が聟とし、二男輝政を太閤(秀吉)の養子となすべしと契約」(『寛政重修諸家譜』)したという。輝政の養子話は立ち消えになったようだが、恒興の次女と秀次の縁談は実現している。
清須会議で恒興と秀吉はほぼ利害が一致していたように感じられ、姻戚関係はそれを強化するのに役立ったのだろう。
秀吉&恒興のタッグは続く
清須会議の4カ月後、天正10年10月、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興は京都で会談し、織田信雄を名代につけた。これに織田信孝と柴田勝家が反発。天正10年12月、秀吉は勝家の養子・柴田勝豊、織田信孝を相次いで降した。翌天正11年4月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家は自害、のちに織田信孝も自害させられた。
池田恒興は賤ヶ岳の合戦に参陣しなかったようだが、天正11年5月に美濃が与えられ、清須会議後に与えられていた大坂を秀吉に譲った。秀吉は大坂城を建築しはじめる。一方、恒興は長男の池田元助を岐阜城に据えた。岐阜城は織田政権にとって特別な地である。そこに三法師の義叔父である元助を置いたことは、感慨深いものがあったに違いない。
信孝の死によって、織田信雄は織田家の後継者としての地位を一歩進めた。そして、目障りとなった秀吉との対立姿勢を強めていく。
対家康戦、小牧・長久手では…
天正12年3月、信雄は秀吉に通じているとして家老3人を殺害。徳川家康が信雄と結ぶと、秀吉も出兵(小牧・長久手の合戦)。ここで、織田家旧臣の動向が懸念されたが、池田恒興は秀吉側に着いた。これも恒興から見れば当然の措置である。信雄の擡頭は、将来あるべき三法師政権の阻害要因になりかねないからだ。
両陣営は尾張(愛知県西部)で対峙したが、合戦は早々と膠着状態に入った。秀吉は三河(愛知県東部)に侵入して、家康方の岡崎城を陥落させようと発案。羽柴秀次を大将として、池田恒興・元助父子、恒興の女婿・森長可(蘭丸の兄)等、2万の大軍を「密かに」差し向けた。しかし、野戦巧者の家康に見抜かれて逆襲に遭い、池田恒興・元助・森長可は討ち死にを遂げた。三法師の真の後援者が軒並み亡くなった瞬間であった。


