非常に遅れていたヨーロッパ人たち
近代ヨーロッパの人々が衛生的になったのは他の地域と比べると遅かった、という事実を無視することでこの説は成り立つ。古代メソポタミアの都市でバグダッドの北東に位置していたエシュヌンナには、紀元前2500年にレンガ作りの下水道と屋外に水洗トイレがあった。パキスタンのインダス川流域には、紀元前2600年から2501年まで家々にトイレが設置されていた。アメリカの衛生エンジニアのハロルド・ファンズワース・グレイ(1885~1963)は1940年に「19世紀末になってようやく英国の人たちは糞便とその悪臭におさらばでき」「4000年前の古代クレタ文明のミノア人たちにやっと追いついた」という。古代世界までさかのぼって見ていけば、19世紀のヨーロッパ人は拡大する都市でゴミや糞尿の問題にやっと取り組み始めたばかりで、非常に遅れた人たちと見なされる。それを思えば何か複雑で矛盾した力が仮想の「現在」で働いている。
不快な「場所はずれの物質」
『汚穢と禁忌』でメアリー・ダグラスが汚物を「場所はずれの物質」と表現したことは有名だ。私たちに「認知的に不快で嫌悪感を催させる」汚さは、物質そのものが客観的に見て汚いのではなく、私たちが状態や情景に意味づけし、「分類秩序」が揺らぐことによって汚くなる。たとえばスープに髪の毛が浮いている場面を思い浮かべてみよう。そのとき感じる「汚い!」という嫌悪感は、髪の毛そのものから来るものではない。頭に生えているときに髪を汚いと感じはしなかったどころか、欲望がそそられていたかもしれない。だがあるべきところではないところに髪の毛があると、汚いと感じる。ダグラスが言う「場所はずれの物質」は普遍的に人々の注意を引き、強い嫌悪感、不快感や反感といった不慮の感情を引き起こす。
本章で見てきた糞便などの汚物も「場所はずれの物質」だ。ロンドンやパリの大都会で下水道が整備されて糞便が不可視化され、においで悩まされることがなくなると、排せつ物は時代錯誤的と感じられるようになった。非ヨーロッパ、非白人、植民地化された人々や貧しい人たちが扱う排せつ物と関連づけることにより、「消化システムの排せつ物を正しく管理する」ことのうえに文化の優位性が保たれた、と考えられた。当然ながらそれは脆い幻想であり、科学的権威に対する傲慢な盲信と、排せつ物が近代社会で重視されることはないという頑固な否認に支えられていた。


