公衆衛生とマルキ・ド・サド

パリやロンドンで大々的な下水道が地下に整備されたことは典型的な例となったが、西洋の先進性は都市の公衆衛生を秩序化し、排せつ物の始末を管理することで示された。排せつ物を視界から遠ざけることで、正しい知識を持った文明人は糞便のような卑しいものにわずらわされないとされた。世界の見え方やにおいだけでなく、感覚そのものがテクノロジー的に進んだ洗練された社会であるという想像上の「現在」は、排せつ物を否認することのうえに成り立っていた。その結果、排せつ(行為)がタブーであり、性犯罪と見なされるかもしれないという集団的抑圧が生じたのは驚くことではない。

マルキ・ド・サド(1740~1814)の『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』が書かれたのは1785年だが出版は1904年まで待たなければならなかった。4人の放蕩者が人里離れた城にさらってきたティーンエイジャーの少年少女たちを監禁し、暴力的性行為を行なって性的満足を得るという話で、尿を飲ませたり便を食べさせたりするシーンが続出する。洗練された社会では排せつは違法でエロチックな行為となったことを表す小説だ。

僻地の部族とその信仰の話に魅せられていたジークムンド・フロイトは、文明化された社会は排便の快楽を否定するうえに成り立っているとした。すべての子どもたちは身体の排せつシステムに自然と惹かれるが、性心理が健全に発達していく過程で肛門への刺激を望ましくないと感じて性器に性衝動を覚えるようになるとフロイトは記した。この性心理の発達は1歳半ごろに起こり、子どもは肛門に性感帯があることを発見し、その動きをコントロールすることに快感を覚えるようになる。

成長とは「羞恥心を養成すること」

トイレトレーニングを始めると、子どもは肛門を刺激する快感をめぐって大人と衝突するようになる。フロイトによれば、子どもがおまるに座ることに抵抗したり、便通を我慢したり、便で遊んだりする過渡期はむずかしい時期で、肛門の快楽をうまく昇華させないと、子どもは長じてから異常な潔癖症になったり秩序にこだわったりする神経症を病んだりする。精神分析学的には、成人になることはトイレに関することへの羞恥心を養成することだ、ということになる。身体にまつわる羞恥心はやがて適切に自制する行動や社会適応へと置き換えられていく。

おまると紙おむつ
写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
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文化と社会の地勢図がより広範に記されるようになると、こういった心理的発達のモデルや自制のモデルは胃腸の歴史の新しい側面に光を当てた。19世紀の衛生関連の輝かしい発明は、公衆衛生よりも文明化された自己形成との関係で語られるようになる。ロンドンとパリの下水道整備はどちらも、人類がより衛生的な環境を整えたという進歩を成し遂げた証明であり、これで感染病は撲滅され、街から悪臭が永久的に消え去ったとされた。消化と糞便を取り除いた「現在」の確かな光景である。ただしこれは、白人、ブルジョワ階層、西洋の「現在」だ。ヴィクトリア朝期に比べて汚く、人々が排せつのプロセスに囚われていた「過去」と比較しての「現在」である。