惣領と弟、若党で構成された一家の兵力
文永の役の2年後の建治2年(1276)、幕府が高麗征伐計画を立てて西国の武士に動員可能兵力を報告するよう命じた際に、筑前国(現在の福岡県)の中村続という御家人が提出した報告書が残っている。その要点は以下のようなものであった(「広瀬文書」)。
続(乗馬・鎧)
舎弟三郎並(乗馬・腹巻)
若党五郎大郎(乗馬)
<歩兵>又二郎 源三法蓮入道 源藤次 源藤四郎 又太郎 散大郎 犬二郎
惣領(一家の主)の続と弟の並、そして若党(上級従者)の三人が騎兵、七人が歩兵という構成である。何とも頼りないが、これでも多い方で、同時期に肥後国の定愉という武士が申告した兵力は、自分と郎従(上級従者)一人と所従(下級従者)三人であった(「石清水文書」)。
馬は一頭しかないとのことなので、騎兵は定愉一人ということになる。また、弓も二張しかないので、定愉と郎従の二人しか装備できない。
したがって所従三人は戦力としてはほとんど期待できず、主人である定愉の馬の口を取ったり、定愉が倒した敵にトドメを刺して首を取ったりする程度のことしかできないだろう。
騎兵と歩兵が混在する武士団の実態
騎馬武者が歩兵の従者と共に行動する点も、律令国家の軍隊とは大きく異なる。騎兵隊と歩兵隊を分けて運用するということは行われなかった。
当時の軍隊には、このような小武士団が多数含まれており、隊列を組むこともなく、それぞれが周囲を出し抜いて手柄を立てようとしたのである。
もちろん共同で訓練することもないのだから、陣形以前の問題と言える。まして「軍師」が中国兵法に基づいて全軍を一元的に作戦指揮することなどあり得ない。


