南北朝時代になかった中国兵法書の種類

『太平記』には軍記物の特性上、合戦を主材とする章段が多い。その合戦譚においては、戦術・戦略面への言及もしばしばなされる。軍議では『六韜』『三略』をはじめとする中国の兵法書を引用している。けれども、実際の軍議で、本当に兵法書が引用されたのか、武士たちが中国の兵法書を読んでいたのか、疑問なしとしない。

実は『太平記』の特徴の1つは、膨大な漢籍(中国の書物)の引用である。中国古典を延々と引用して、話の本筋から脱線することも珍しくない。『太平記』作者が自身の知識を基に軍議の場面を脚色した可能性があり、当時の武士が漢籍を縦横に引用して、中国の兵法に基づいて軍議を行っていたことの証拠にはならない。

南北朝時代の武将で、当代一級の文化人でもあった今川了俊いまがわりょうしゅんは『了俊大草紙おおぞうし』において、「兵法事。今、天下に人の用いるところの兵書は、四十二ヶ条なり…(中略)…兵法の事は皆真言にて左右なく行いがたき事なり」と記している。

南北朝時代に流行した兵法書は呪術的な『張良一巻書』であり、『孫子』などの合理的・現実的な中国兵法書ではなかったのである。

陣形を作らない理由

なぜ中世武士は陣形を作らなかったのか。それは、この時代の軍隊は、中小規模の個別の武士団の寄せ集めにすぎず、統率がとれていなかったからである。

蒙古もうこ襲来の折に防戦した肥後ひご国(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長たけざきすえながが自分の武功を描いた絵巻『蒙古襲来絵詞えことば』によれば、文永11年(1274)の文永の役における竹崎季長部隊の構成・装備は次のようなものであった。

竹崎五郎兵衛尉季長(乗馬・弓矢・兜・大鎧)
姉聟 三井三郎資長(乗馬・弓矢・兜・大鎧)
郎党 藤源太資光(乗馬・弓矢・烏帽子・腹巻)
郎党 氏名不明(乗馬・弓矢・烏帽子・腹巻)
旗指 三郎二郎資安(乗馬・旗・烏帽子・腹巻)

同絵巻によれば、竹崎季長ら五人は、先駆け(敵陣一番乗り)の功を立てるため、他の部隊と合流することなく、単独で行動している。

竹崎 季長
竹崎 季長(画像=Siwamura/ CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

全体の勝利など考慮せず自身の武功を最優先する季長の行動は、『平家物語』に見える宇治川うじかわ合戦の佐々木ささき梶原かじわらの先陣争い(佐々木高綱たかつなが先行する梶原景季かげすえに対し「馬の腹帯がゆるんでいますよ」とウソをつき、梶原が腹帯に気を取られているうちに佐々木が抜き去り敵陣に一番乗りしたという逸話)を想起させる。

このように小武士団が連携せずに思い思いに戦っているような状況では、全軍を有機的に動かすことなど不可能である。