消耗戦を行うためだけの捨て駒

久保本人が「黒歴史」と語るほどのW杯だった。ドイツ戦に続いて、消耗戦を行うためだけの捨て駒にさせられていた。

クロアチア戦はインフルエンザで出場できずに終戦した。

「多少なりとも、悔しい思いを抱える選手、活躍できて嬉しい選手がいて、みんな、それを見せずにチームのために戦っていました。W杯だからこそ、やっていたというか」

鎌田はそう洩らしていたが、真実の言葉だろう。選手が自らの心身を削って、どうにか成立していたサッカーだったのだ。

ここで1つ問いたい。

森保ジャパンはいいサッカーなのか、悪いサッカーなのか。

森保一、イラン対日本の試合前記者会見(ハザ・ビン・ザーイド・スタジアム)
森保一、イラン対日本の試合前記者会見(ハザ・ビン・ザーイド・スタジアム)(写真=Hadi Abyar/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

世の中にはいいサッカーという表現がある。雰囲気で説明するなら“ボールを持てること、つなげること”の練度になるが、ポゼッション率はあくまで数字である。

どのようにボールをつなぐのか、そのルートをチームとして拵えて、さらに裏をかいてゴールへ迫っているか。そこまでくると、いいサッカーの色合いや匂いが滲み出てくる。

「いいサッカー」とは何か

根っこにあるのは、主体性と言える。パスをいくつもつなげていなくたって、相手を翻弄していたら“いいサッカー”となる。

少ないパス本数でゴールに迫っても、いいサッカーであることに変わらない。それがトレーニングの中で再現性のあるものになっているか。誤解されがちだが、縦に速いカウンタースタイルも狙って出し抜いている場合、いいサッカーの部類に入るのだ。

いいサッカー=能動的サッカーを実行するのは難しい。

なぜなら、ボールを持ってつなぐ動作は技術やビジョンが不可欠で、同時に2つ以上のことをしなければならず、どうしても隙が生まれる。

少しでもパスがずれ、コントロールがずれただけで、簡単に詰め寄られる。トレーニングで最大限に効果を高めない限り、餌食になるのだ。

受け身のサッカーは、ボールを持った相手が悪い態勢になるところを狙える利点がある。

ボールを扱って動くのは、トレーに飲み物を乗せてこぼさないように走るような難しさで、その隙はどのようにでも突ける。