「根底から会社をつくりかえたい」

1959年1月、東京・市ケ谷で生まれた。父は銀行に務め、母と兄との4人家族。父の転勤に伴って転居が続き、小学校に入学したのは長野県更埴市屋代(現・千曲市)。2年生で東京・高円寺へ引っ越し、以後は杉並区暮らしだ。

中央大学法学部へ進み、テニスに打ち込んだ。4年になっても、就職はまだ早い気がしていたが、就活に走る友人に刺激され、先輩の話を聞きにいく。そこで「ここだけはやめよう」と思った職種の1つが、証券マン。だが、野村に入った先輩におごってもらう学友に誘われ、鰻をごちそうになったことを契機に、内定をもらう。兄の就職の際には「証券会社はやめておけ」と言った父も、「野村ならいい」と言ってくれた。

81年4月に入社、高松支店に配属され、初めて箱根の山を越えた。

「遠くへいってしまう」と母に泣かれたのを、覚えている。香川県に野村は1店だけ。全県へ出かけ、タクシーの運転手になれるくらい、地域に詳しくなる。

3年半いて、次は本店営業部。一匹狼の腕利き営業マン揃いで、全社のなかで、ここだけはお客の引き継ぎがない。ゼロからの出発。でも、朝早く出社し、上司に仰せつかった雑用を済ませれば、後は何をしてもいい。どの会社を訪ね、どの資産運用担当や経営陣に会うのも自由だ。好きなように、腕試しができた。

88年8月から4年間、組合の専従役員を務めた。後半の2年は委員長。いろいろな難事に直面する。あるとき、執行部でまとめた議案を大会にかけようと思い、約30人の中央委員会に諮った。ところが、午前の討議で大反対を受け、大会にかけても通らない雰囲気となる。昼休みに、それまで意見が同じだった執行部の面々に囲まれ、「もう無理だ。やめましょう」と言われた。「ああ、これで、とうとう1人になったな」と思う。でも、案件は「1番正しい方向だ。ここでやめたら、たぶん、会社の将来は危うい」と確信していたから、昼食時に執行部を説得する。彼らに自信を取り戻させ、午後の中央委を、何とか乗り切った。