「会うこと=善」という当たり前を疑うべき
これらは本当に必要だから続いていたのではなく、やめる理由がなかったから続いていただけです。コロナ禍はその慣習を強制的に断ち切りました。
その結果、私たちは初めて気づいたのです。「なくても困らない関係」がいかに多かったかということに。したがって重要なのは、「会うこと=善」という前提を疑うことです。私はここをはっきりさせておきたい。会うこと自体に価値はありません。価値があるのは、「誰と会うか」です。
この基準を導入すると、行動は劇的に変わります。無意味な会食は減り、形式的な付き合いは消え、本当に必要な関係だけが残る。その結果、精神的な負担は驚くほど軽減されます。さらに言えば、「会う」という行為は時間を占有します。移動時間も含めれば、数時間単位で奪われる。人生後半において、このコストは決して軽視できません。
限られた時間を誰に渡すのか。この意識を持たなければ、時間は簡単に他者に収奪されます。人生後半において、対人関係は「量」ではなく「精度」です。人と会うことはコストである。この前提を持つことが、余計な消耗を防ぎ、自分の時間と精神を守るための最も確実な方法なのです。
コロナ禍が変えた人間関係の常識
コロナ禍は多くのものを破壊しました。しかし同時に、見えなかった構造を可視化しました。その一つが人間関係です。パンデミック以前、私たちは当然のように会い、集まり、交流していました。しかしその多くは、本当に必要なものではなかったのです。それが一斉に停止したとき、多くの人が気づきました。
「なくても困らない関係」が大量に存在していたことに。この気づきは決定的です。なぜなら、それまでの人間関係の大半が「慣習」によって維持されていたことを意味するからです。飲み会、会食、挨拶回り。これらは合理的に選ばれたものではなく、単に惰性で続いていたにすぎません。コロナ禍はそれを強制的にリセットしました。そして残ったのは、本当に必要な関係だけでした。
ここで私は強調したい。この経験をどう扱うかが重要なのです。元に戻すのか、それとも再設計するのか。人生後半においては、迷う余地はありません。後者を選ぶべきです。すべての関係を復活させる必要はありません。むしろ、減らすべきです。関係とは増やすものではなく、選び直すものだからです。
コロナ禍は不幸な出来事でしたが、同時に一つの機会でもありました。人間関係を見直し、不要な結びつきを切り、本当に必要な関係だけを残す機会です。この機会を無視すれば、私たちは再び同じ過剰な関係に引き戻されるだけです。

