日本文化紹介のイベントで座禅に出合う
仏教自体はもちろんインド発祥だが、著者は学生時代に体験した日本の文化紹介イベントで座禅に出合い、日本的な仏教への理解を深め、学ぶために来日したという。
昨今、世界中で影響力を持つに至ったアニメやコミックスなどのサブカルチャーが牽引する形で、日本文化への関心が高まり、高度な日本語を身につけて日本に定住する知識層の外国人が増えている。
カルチャー消費の段階を超えて「知りたい」「見たい」という気持ちが「行きたい」「学びたい」という行動に結びつき、この複雑で曖昧な日本語を驚愕の学習能力で習得して優秀な外国人の様々な才能が花開く著作やトークを、私はいつも満腔の敬意でもって目にし、耳にしている。
なぜなら、言語こそが文化精神性の凝縮、鏡だからだ。日本人が外国語を習得する過程にその国の習慣や精神性を理解するプロセスがあるのと同様、ハイレベルな日本語を習得してくれた人には、必ずその過程で日本に関するポジティブな感情だけではない、さまざまな気づき、戸惑いや疑問が生じている。ドナルド・キーンの例を引くまでもなく、その「なぜ」や驚きや戸惑い、場合によっては憤りを清濁併せて自分なりに納得し内面化してこそ、表層的な「日本大好きです」ではない、深い理解へと導かれるからだ。
ドイツ人が語る仏教だから得られるものがある
「日本的なるもの」を外部から(しかも日本語で)著述する試みには、だからそういう実に私的な、なおかつ高度な葛藤が宿る。
つい先日も、英国人A・ウェイリー訳の『源氏物語』を日本語に逆翻訳した『源氏物語 A・ウェイリー版』(左右社)を読んでみて、日本人が源氏物語を現代語訳するのとはまったく違う新鮮な言語風景にハッとさせられた。
「エンペラー」「ランプ」「スクリーン」「コート」。異文化に育った人が日本の文化を本人の理解で再話したテキストは、日本人にとっては血肉であり意識すらしない非言語的な感覚すらも理解し、体得し、言語化せねばならないという努力を乗り越えた先で描かれている。現代の日本人が古典を翻訳したものは日本文化の地続きにある「現代的」。だが現代の外国人が日本の古典を翻訳したものは、海を越えた「モダン」になるのだ。
本書も同様、著者・ネルケ無方氏はさまざまな「説明しづらい日本仏教」を長年の精神鍛錬と研究で乗り越えていく。欧米のインテリ層には、近年、変化への反動として非科学性を増し原理化する一部のキリスト教に嫌気がさして、自然科学、量子論やカオス理論とすら相性が良い仏教を好む人が多いらしい。
走りたくないなら、走らなくていい
そういった欧米の「頭でっかちなインテリ僧侶」である筆者は、たとえば一神教のキリスト教を当然とする生育背景からは不思議としか思えない「(唯一)神の不在」、仏教特有の「神々のインフレ(なんと八百万まで増殖)」の“理由”を理解し、さらに科学的かどうかで言えば多分そうでもなさそうな「輪廻転生」などを論理的に考察していく。
「一回や二回くらい生まれ変わったって構いませんが、それが永遠に続く輪廻転生を想像すると、やはり億劫としか言いようがない」などと、決していい子に収まらない結論に達しているのも面白い。
日本文化を背景に育った日本人僧侶が解説する仏教入門ではなく、キリスト教から仏教へと入ってきた外国人僧侶による仏教入門は、それ自体が俯瞰的であり、比較宗教論的で味わい深い。イラスト調の表紙から察するに、若い世代に向けた仏教入門として「クソゲー」なる言葉をタイトルに採用したかもしれないが、同時に知的好奇心の強い中高年が面白がることのできる一冊だ。
同書は、さらに続編も出ている。『人生というクソゲーを変えるための哲学と坐禅』。坐禅に救われたと述懐する著者が前作を踏まえ「ゲームを降りるゲームもやめて、遊びに出かけよう」と誘う。曰く、「『人生を改善させたい』という病気がようやく治った」。それは私もあやかりたいところだ。人生丸ごと競争に囚われ、比較と評価の枠組みに絡め取られ、走りたくもないのにラットレースで走り続けてしまった我々こそ、読まないわけにはいかないだろう。


