「消耗するのは無駄」という“正しい”判断

将棋で言えば、織田軍は駒得どころか飛車角を両方落とした状態から逆転を狙わなければならない局面だ。不可能ではないが、相当な無理筋である。

秀吉はこの盤面を見て、帰った。「詰んでいる」とまでは言えないが、「割に合わない」とは明確に判断できる局面だった。

頭脳の冴えた秀吉は、織田軍の全体像をみていたはずだ。各方面に主力を注いで信長包囲網に参戦する敵対勢力と戦っている。その中で、この戦線は今のところは主戦場ではない。

「いま、ここで消耗するのは無駄だ」

すぐに、そんな判断をしたのではなかろうか。この「損切り」は極めて重要だ。これをしくじるとすべての戦線が崩壊する。もっともわかりやすいのは、太平洋戦争におけるガダルカナル島の戦いであろう。この戦いで、日本軍は戦略上重要とは言い難いガダルカナル島を確保することに固執、結果多くの兵員と艦船を消耗し敗北への転換点となった。

陣を張ったのに無断離脱。最近の流行でいうなら、歓迎会の途中でこっそり抜け出して別の合コンに向かう新入社員みたいな行動だが、秀吉の場合は極めて合理的な判断に基づいたものだった。

しかし、ここでの秀吉のやらかしは「まあ、信長様もわかってるでしょう」と連絡を怠ったことだ。

信長は“指揮系統の維持”のために激怒した

秀吉としては、むしろ褒められるくらいに思っていたのではなかろうか。「信長様の命令が来る前に、状況を読んで撤退しました。われながら気が利くでしょう」そのくらいの自信があったはずだ。

実際、内心では信長もそう思っていたかもしれない。勝家は愚直に陣を張り続け、挙げ句の果てに上杉軍に叩かれている。どう見ても割に合わない戦いに付き合い続けた結果がこれだ。秀吉の判断は、客観的に見れば正しかった可能性が高い。

しかし、だからこそ褒めるわけにはいかないのだ。

織田信長像
信長が「俺の意図を先読みしてよくぞやった」と褒めてしまえば、次から全員が勝手に動き始める。組織の指揮系統が崩壊してしまうことを恐れたのではないか。織田信長像 賛・跋。狩野元秀・筆(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons

組織のトップというのは、そういうものだ。「俺の意図を先読みしてよくぞやった」と褒めてしまえば、次から全員が「俺も信長様の意図を読みました」と言いながら勝手に動き始める。組織の指揮系統が、その瞬間に崩壊する。

信長が激怒しなければならなかったのは、秀吉の判断が間違っていたからではない。正しかったからこそ、激怒しなければならなかった。だからこそ、側近がビビるくらいに過剰にキレまくった……一番迷惑だったのは、太田牛一だったというわけだ。

ともあれ、秀吉が幸運なのは、めちゃくちゃ激怒されたのに直後に松永久秀が裏切って有耶無耶になったことだろう。

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