秀吉亡き後、秀頼と心を通わせた

秀吉や夫亡き後、智に労りの言葉をかけてくれたのは、秀吉の子・豊臣秀頼(母は淀殿)でした。慶長18年(1613)頃、秀頼が智に送った書状には「ご息災ですか。承りたく思います。世も涼しくなりましたので、大坂へのお下りをお待ちしています。(中略)この銀子200枚を贈ります」との文言が見えます。

豊臣秀頼像(東京藝術大学所蔵)、17世紀
豊臣秀頼像(東京藝術大学所蔵)、17世紀[写真=(伝)花野光明/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

高齢の智を気遣う秀頼の優しさが伝わってきます。他にも秀頼は「世上は冷えますので、よくよくご養生してください。約束した屏風を贈ります」などと記された手紙を伯母に送っています。智からすれば、秀頼さえ生まれなければ、わが子・秀次は死ぬことはなかったと思ったこともあったでしょう。一方、秀頼も自身が預かり知らぬこととは言え、伯母とその子(秀次)を襲った悲劇を長じてから知り、何とも言えない気持ちになったと思われます。両者の間には最初は溝があったかもしれません。

北政所より長生き、91歳で没す

しかし、秀頼が智に出した書状を見ていると、慶長18年(1613)頃にはもはや、その溝は埋まっていたように感じます。高齢の伯母を気遣う秀頼もまた慶長20年(1615)に徳川方により攻められ、自害して果てます(大坂夏の陣)。智は秀頼の死も大いに悲しんだことでしょう。大坂夏の陣から10年後の寛永2年(1625)4月、智は91歳で亡くなります(その前年には秀吉の正室・高台院が亡くなっています)。

わが子・秀次の非業の死から30年、甥の秀頼の死から10年……。死の瞬間、智の胸に去来した思いとは何だったのでしょうか。

参考文献
・渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(創元社、1939年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・柴裕之編著『豊臣秀長』(戎光祥出版、2024年)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

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