信長の家臣団の総意
要するに信長は、延暦寺が浅井・朝倉と手を結び、信長側の要請を一切無視して織田軍を苦しめ続けたことへの報復として、また見せしめとして、延暦寺の焼き討ちに踏み切るのである。
それはよくいわれるような、革命児たる信長が既存の宗教的権威を否定しようとした、という類のものではない。もっと単純に政治的な行為だった。
信長は元亀元年(1570)9月から1年にわたり、延暦寺に煮え湯を飲まされ、前述のようにかなり厳しい状況にも追い込まれた。だから、家臣たちも延暦寺には、かなりの恨みをいだいていたのではないかと想像する。
「豊臣兄弟!」では、延暦寺への恨みは、信長ひとりがいだいているかのように描かれた。しかし、実際には、延暦寺が浅井・朝倉に肩入れするばかりに、信長の家臣たちもまた、その家族や家臣が窮地に陥ったのである。信長が選んだ焼き討ちという手法はともかく、延暦寺への恨みは、信長とその家臣団の総意だったのではないだろうか。
とはいえ、それにしても、行われたことは残忍きわまりない。
女も子供も全員が首を切り落とされた
さて、『信長公記』は、焼き討ちが行われた9月12日の模様を、どう書いているのか。
9月12日、比叡山を攻撃し、根本中堂や日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵など1棟も残さず、一挙に雲霞が湧き上がるように焼き払い、無惨にも灰燼の地と化した(筆者訳)
というのが全体像で、最澄が開山して以来の、いま残っていれば国宝や重要文化財になっていたであろう建物の数々が焼け落ちた。東塔地域にある瑠璃堂など、偶然に焼け残った建物はあるが、「1棟も残さず」は実態に近い。
続いて、山内にいた人々についての描写である。
山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取らず、みな裸足のまま八王寺山に逃げ上がり、日吉大社の奥に逃げ込んだ。諸隊の兵が地方から鬨の声を上げて攻め上がった。僧、俗、児童、学僧、上人とすべての首を切り、信長に検分させ、これは比叡山を代表する高層だ、貴僧だ、学識が高い僧だと報告した。
ほかに美女や子供も数えきれないくらい捕らえて、信長の前に引き連れ、悪僧はいうまでもなく、「私たちは助けてください」と口々にすがる者も少しも容赦せず、1人残らず首を切り落され、目も当てられない状況で、数千の死体が転がる哀れなありさまとなった(筆者訳)

