史料に残る信長の説得

「豊臣兄弟!」では、足利義昭(尾上右近)の仲介で元亀元年(1570)12月、信長と浅井・朝倉両氏がいったん和解してしばらく後、焼き討ちを実行に移す直前に、光秀に延暦寺への書状を送らせたように描かれた。だが、史実においては、信長は延暦寺に、それなりの猶予をあたえている。

元亀元年9月、「豊臣兄弟!」でも描写されたように、信長方の宇佐山城(大津市)が浅井・朝倉の軍勢に攻められ、信長の重臣の森可成が討たれた。その後、浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺に入って、そこに立て籠もってしまう。いうまでもないが、延暦寺が浅井・朝倉軍を支援し、彼らを受け入れたのである。

信長はその時点で、延暦寺に申し入れていた。信長の事績を記した第一級史料である太田牛一の『信長公記』には、9月24日の条に、次のように書かれている。