史料に残る信長の説得
「豊臣兄弟!」では、足利義昭(尾上右近)の仲介で元亀元年(1570)12月、信長と浅井・朝倉両氏がいったん和解してしばらく後、焼き討ちを実行に移す直前に、光秀に延暦寺への書状を送らせたように描かれた。だが、史実においては、信長は延暦寺に、それなりの猶予をあたえている。
元亀元年9月、「豊臣兄弟!」でも描写されたように、信長方の宇佐山城(大津市)が浅井・朝倉の軍勢に攻められ、信長の重臣の森可成が討たれた。その後、浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺に入って、そこに立て籠もってしまう。いうまでもないが、延暦寺が浅井・朝倉軍を支援し、彼らを受け入れたのである。
信長はその時点で、延暦寺に申し入れていた。信長の事績を記した第一級史料である太田牛一の『信長公記』には、9月24日の条に、次のように書かれている。
信長は延暦寺の僧を10名ほど呼び寄せ、これから信長の味方になって忠節を尽くすなら、信長領内の延暦寺領はもと通りに返還する、と刀の鍔を打ち合って伝えた。
しかし、宗教者として一方だけに味方することはできないなら、我々の行動を見逃してもらいたいと、筋道立てて話して聞かせた。
そして稲葉一鉄に命じて、以上のことを朱印状にして手渡した。そこには、これら2箇条に違背するなら、根本中堂、日吉大社をはじめ、一山を焼き払うと付け加えた。
ところが、延暦寺の僧からはなんら返事がなく、その後も浅井・朝倉の味方をして、禁制の魚や鶏肉、女人まで山中に入れ、したい放題に悪行をしていた(筆者訳)
「延暦寺のせい」で窮地に陥る
「豊臣兄弟!」のように、「信長に味方しなければ皆殺しだ」と伝えたのではなく、せめて中立でいるように求めているのだから、筋は通っている。しかも、比叡山には時間的な猶予もあたえている。
ところが、『信長公記』にあるように、信長は完全に無視されたのである。元亀元年9月から、信長と浅井・朝倉軍がにらみ合ったのを「志賀の陣」というが、結局、延暦寺が信長の要請に従わず、浅井・朝倉軍に味方したため、にらみ合いの状態は結局、年末まで3カ月も続いた。
その間、信長はかなりの苦労を強いられた。浅井・朝倉との戦いが膠着状態に陥り、信長が劣勢に立っていると判断されたため、三好三人衆や六角氏、伊勢長島(三重県桑名市)の一向一揆など、これまで信長を悩ませてきた勢力が、ここぞとばかりにふたたび勢いづいたのである。
むろん、信長は「延暦寺のせいだ」と受けとっただろう。実際、足利義昭の仲介で和睦できなければ、信長はかなりの窮地に陥った可能性もある。

