その後も覚書の更新だけは続いている。2025年4月には国土交通省とタイ運輸省が鉄道・都市開発分野の協力覚書を改めて締結した。高速鉄道は協力項目に含まれているものの、覚書更新の主眼はレッドライン(バンコク都市鉄道)の保守支援やTOD(公共交通指向型都市開発)となっており、バンコク―チェンマイの着工時期は示されていない。

中国主導の路線が8年かけて進捗50%なのに対し、日本路線は10年かけて進捗0%という状況だ。もっとも、着工すらしていないということは、日本は巨額の損失リスクを負わずに済んでいるとも言える。インドネシアで「時限爆弾」と呼ばれた中国主導の債務を思えば、新幹線を「売らなかった」ことは、結果的に日本にとって最善の判断となった。

クレーン落下で32人死亡の大惨事

工事の遅延が続くタイ高速鉄道に、今年1月、さらなる問題が降りかかった。建設現場で、2件の重大事故が相次いで発生。中国企業の関与が判明し、高速鉄道プロジェクトの安全性に疑問符が付いた。

このうち1件では、タイ北東部ナコーンラーチャシーマー県の高速鉄道の建設現場で、建設中の高架から工事用クレーンが落下。地上部分を走行中だった列車を上から押しつぶした。

2026年1月14日、タイのナコーンラーチャシーマー県で建設用クレーンが倒壊し、列車に衝突した事故現場の空撮写真
写真=Lillian SUWANRUMPHA/AFP/時事通信フォト
2026年1月14日、タイのナコーンラーチャシーマー県で建設用クレーンが倒壊し、列車に衝突した事故現場の空撮写真

現地のある女性は、6歳の孫とこの列車に乗っていた。孫が車窓を眺めていると、爆発にも似た音が響いたという。女性はニューヨーク・タイムズに、「一時は意識を失いました。気づいたときには車両が潰れていました」と語った。

座席の下からは「足が痛い」と叫ぶ孫の声が聞こえた。頭から血を流しながら孫を引きずり出し、脱線して亀裂が入った車両から命からがら脱出したという。孫は両足の骨が砕けており、自身も顔を少なくとも10針縫った。

同州保健局の発表によると、死者は32人、負傷者は64人に達した。夜になっても3人の行方がわからなかった。公共放送タイPBSの映像では、横転した車両と、その上を動く救助隊員が確認できる。車両の側面には大きな穴が開いている。

事故車両は3両編成で走行していた特急21号で、当時乗客は約200人。クレーンは2両にまたがるように落下し、列車を脱線・炎上させた。

事故から約24時間後には、バンコク南西郊外のサムットサーコーン県の高速道路でも別のクレーンが横転。少なくとも2人が死亡している。

大地震の悪夢と中国企業の影

およそ24時間で2件のクレーン事故を起こした請負業者イタリアン・タイ・デベロップメント(イタルタイ)は、過去にも安全性の不備が指摘されている。そしてその影には、中国企業の影がちらついていた。

2025年3月、バンコクを襲った大地震で、国家監査ビルが崩壊。ロサンゼルス・タイムズによると、イタルタイはこのビルの建設を共同で一次受けした業者の一社だった。大地震ではあったが、タイ国内で甚大な被害を受けた大規模な建造物は、このビル1棟のみであった。崩壊により100人近くが死亡した。