女性ばかり1300人の花見客
この「1300人の女房衆」の内訳は、秀吉の奥につとめる女性を中心に、あとは秀吉傘下の大名・武将の奥方や腰元たちであったという。
驚くのは、花見の参加者のうち男性は、秀吉と秀頼、そして前田利家だけだった、というのだ。二月の下見には、徳川家康も伴っていたというのに、家康当人は客としては呼んでもらえなかったわけだ。
「男どもは、花見の警護・運営にあたれ」
というのが、天下人としての秀吉の権力志向であったのかもしれない。
秀吉という人は、他人の奥さんがひどく気になるたちであったらしい。
しばしば、傘下の大名や武将に対して、「妻を見せろ」的なことを言う。妻や娘まで、拝謁しに来いと、呼びつけるのだ。
ともすれば、取りあげられちゃうかもしれない、と危機感を持つ者も少なくなかった。なにしろ相手は絶対権力者である。イエズス会の宣教師オルガンティーノの報告書には、秀吉が美しい娘や夫人と見れば、見境なく召し出して我がものとする「獣」だ、という意味の記述がある。
亭主が朝鮮出兵のさなか秀吉に呼びつけられた肥前の大名・鍋島直茂夫人(陽泰院、彦鶴、藤とも)は、貞操の危機を感じたのか一計を案じた。「御額角に御作り、異形の御面相にて御出で御目見なされ候」と、『葉隠』の聞書第三にある。つまり、額を四角に剃りあげたヘンな顔でお目見えしたのだ。ちなみに、この資料の「角」は、「カク」と読むのが一般的だが、これを「つの」と読めば、四角のカドをさらにずいっと剃り込ませツノ状に拵えたのかもしれない。これで眉を落とし、お歯黒をつけていたら、般若そのもの。なかなかにコワい。これ以降、秀吉が彼女を呼びつけることはなかった、とあるけれど、どうだろう? この時、鍋島直茂夫人は五十歳を過ぎていたから、当時の感覚としてはやや自意識過剰のきらいが無くもない。
天下統一時代の『家政婦は見た!』
そもそも秀吉にしても、オルガンティーノの告発のように「獣のように好色だった」という見方もあるが、あるいは妻を見て、亭主の度量を測っていたのかもしれない。要領の良い男なら、外づらを取り繕うことはいくらでもできる。しかし、女子供といった家人のあり様には、その男の真の力量が否応なく露呈する。
かつて『家政婦は見た!』というドラマがあった。その人気のゆえんのひとつは、人の家の中を覗くかのような面白さだろう。そういう「他人の家庭を覗きたい趣味の人」というのは、男女によらずいるものだ。
仮に秀吉が、そういう趣味の人であったとすれば、人生最後の大お花見大会において、莫大な金をかけて、全大名の家の中の女どもを覗き見たわけだ。
いわゆる「醍醐の花見」が催されたのは、慶長三(1598)年三月十五日のこと。秀吉が亡くなるのは、それから5カ月後の八月十八日である。もちろん、これが最後の桜になったわけで、3対1300というすさまじい男女比率を考えると、現代の価値観で数百億にものぼったであろう支出も、秀吉の中では収支は合っていたに違いない。
以て瞑すべし……という感じがする。


