秀吉が執着した「最期の桜」

そんな秀吉が最後に執着した一大イベントが「お花見」だった。

秀吉は死の前年、慶長二(1597)年の春に京都の醍醐寺を訪れた。折しも花の候、桜が見事に咲いていた。この時の印象が、余程強かったのだろう。翌慶長三年二月、ふたたび醍醐寺を訪れた秀吉は、三宝院と庭園の復興や仁王門の修理、「山上やり山」にいくつもの御殿を造るように、といきなり命じるのである。

「いつまでに?」

桜の花の咲くまでに、である。

「ここで大がかりな花見を催すのだ」

なんと、あとひと月もないではないか。

花見の責任者には五奉行のひとりで京都所司代もつとめた、前田玄以が任ぜられた。玄以といえば、後陽成天皇の聚楽第行幸を取り仕切った男で、ここ一番の大イベントの監督としては充分な人材だ。

そして秀吉といえば、突貫工事の名人……否、「突貫工事をさせる名人」だ。

一夜で築かれたという伝説をもつ美濃の墨俣城、小田原の石垣山城を例にひくまでもなく、たとえば京都防衛のために洛中をぐるりと囲む惣構えの土塁「御土居」などは、天正十九(1591)年閏一月に着工し、二月には大半が、三月にはすっかり出来あがっていたという。また同じ年、唐入りのために肥前に築いた名護屋城は、わずか5カ月で竣工させた。

南化玄興賛 前田玄以像(蟠桃院蔵)
南化玄興賛 前田玄以像(蟠桃院蔵)(写真=読売新聞社『Masterpieces of Zen Culture from Myoshinji』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

何よりスピード重視の人、秀吉

少々信憑性に欠ける資料ながら、『老人雑話』にこんな話がある。

ある時、秀吉の祐筆が「醍醐」の「醍」の字をど忘れした。祐筆というのは、主人が口頭で語った内容を、手紙や文書にしたためる秘書のごとき役目である。どぎまぎしていると、秀吉は「お前はダイという字を知らんのか? こう書くのだ」と、指で「大」という字を書いて見せたという。ダイと読んで、通じればいい。紙なども、奉書が無ければ継いだ紙でよい、書き損じは墨で消して、そのまま出せと命じたという。スピード重視の人、だったのだろう。

そんな秀吉が、醍醐寺の門の修理や複数の御殿造営の他、さらに「桜ノ馬場」から「やり山」に続く350間(約640メートル)の道に700本の桜を植えよ、と命じたのである。三月には咲く、二月に、である。桜は、畿内一円や名所吉野山から取り寄せられた。ただ材木を引っ張ってくるのとはわけが違う。咲く前のデリケートな時期に、掘り返し、運び、時期にはきちんと花が咲くように、移植しなければならないのだ。

醍醐の花見の決算報告

さて、これらの費用は、いったいいくらかかったのだろう。

もちろん、配下の大名たちに「お手伝い」させるにしても、権力の背景も費用のうち。

「お前には十万石の領地を与えているのだから、それに見合う働きをせよ」

と、いうことだ。働きが悪ければ、十万石は召し上げられてしまう。そこには、「その十万石は、そもそもワシのモノ」という天下人の理屈がある。

これは現代の事例で比ぶべくもないが、2009年から9年の歳月をかけておこなわれた名古屋城の本丸御殿復元の総工費は約150億円、姫路城の「平成の大修理」には、およそ28億円の工費がかけられている。

木の移植は、買い上げ、移動、移植……と、雑に想定しただけでも、クレーンなどの重機がある現代でさえ、一本あたりうすら100万円くらいかかりそうだ。これが700本だと、単純計算でも7億円になる。150万円だったら10億5000万円。平気で跳ねあがっていく。ここにさらに、突貫工事の成功報酬が乗ってくるわけだ。

ちょっと面白いのは、江戸時代に入ってからの記録だが『当代記』などによれば、招かれた1300人の女房衆に対して、それぞれ三枚ずつ新品の衣装を用意し、花見中、お色直しを二回おこなわせた、という。

非常に単純な計算だが、一人あたり100万円の身ごしらえ三回分で、1300人だと39億円になる。秀吉の妻や側室など、とりわけ金のかかりそうなところは別勘定で、である。