岐阜で結婚した可能性が高い
藤堂高虎の一代記『高山公実録』のなかの「郡山城主記」には、秀長の「御実子早世」のため、天正10年(1582)に仙丸が養子に迎えられたと書かれている。この「御実子」のことは、別の史料には「与一郎」という通称で記されているので、秀長の息子が「与一郎」と呼ばれていたのだと思われる。
こうした通称は仮名といわれ、成人男子は日常的には実名(諱)ではなく仮名で呼ばれた。つまり、秀長の実子は天正10年までに亡くなり、その時点で成人していたことになる。当時、元服する年齢は数え15歳前後が一般的で、早くて12歳ほど。仮に天正10年に没したなら、永禄11年(1568)前後、遅くとも元亀2年(1571)には生まれていたことになる。
「豊臣兄弟!」では、秀長と慶は永禄12年(1569)に結婚している。その翌年に与一郎が生まれたなら、いちおう計算は合う。兄の秀吉が寧々と結婚した時期は、永禄4年(1561)説と同8年(1565)説に分かれるが、いずれにせよ尾張時代である。
その後、信長が美濃を手中にし、岐阜を本拠にしたのが永禄10年(1567)なので、史実においても、秀長は岐阜に移ってから慈雲院と結婚した可能性が高そうだ。
史料から読み解く夫婦関係
ただし、彼女の年齢はわからない。彼らが永禄12年(1569)に結婚したとすれば、天文9年(1540)に生まれた秀長はすでに数え30歳で、当時としては晩婚である(むろん、それ以前に記録に残らない女性との婚姻があった可能性は否定できない)。
一方、戦国時代の女性は12歳ぐらいで初潮を迎えるとすぐに結婚するケースも珍しくなかった。少し時代は下るが、江戸時代中期の女性の平均初婚年齢は14歳から22歳ほどだったとされる(速水融「濃尾地方の歴史人口学的研究序説」)。「豊臣兄弟!」の慶は再婚だが、当時は再婚する年齢も10代のことが多かったので、慈雲院は秀長より10歳程度は年下だったと考えるのが自然ではないだろうか。
のちに秀次が病に伏し、天正18年(1590)4月以降、重篤になることが増えると、慈雲院はそのたびに病気平癒のための祈祷を行わせている。ということは、2人の関係は嫡男の死後も良好だったということではないだろうか。
その翌年、秀長は没するが、柴裕之氏は次のように記す。〈文禄四年(註・1595)四月の秀保の死去によって羽柴大和大納言家が断絶した後、慶長年間(一五九六~一六一五)に至っても中之庄村(奈良県天理市)・窪庄(同奈良市)ほかで二〇〇〇石余の所領を所有している〉(『羽柴秀長』角川選書)。

