名前でわかっているのは出家後のみ

秀長の妻についての情報は少ない。「豊臣兄弟!」に慶が登場するのは永禄12年(1569)だが、秀長の妻のことが同時代の史料ではじめて確認できるのは、天正13年(1585)になってから。つまり16年ものちのことになる。

この年、秀長は兄の秀吉から、あらたに大和(奈良県)の統治を委ねられ、9月3日に本拠と定めた大和郡山城(大和郡山市)に入城した。そのとき秀長に付き添って入国した女性のことが、『多聞院日記』(興福寺の塔頭、多聞院で書き継がれた日記)に見える。「濃州女中」と書かれ、その後、「大納言ノ御内」などとも記されるこの女性が、秀長の妻だと考えられている。

追手向櫓(再建)
追手向櫓(再建)(写真=ほっきー/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

妻の名は不明だが、天正19年(1591)1月22日に秀長が没したのちは、出家して「慈雲院」と称された。このため、彼女のことは「慈雲院」と記すのが一般的なので、ここでもそれに従う。その年の5月、慈雲院の生前供養が行われ高野山の奥の院で行われ、そこで捧げられた五輪塔には「慈雲院芳室紹慶」という名が刻まれている。また、秀長の葬儀を仕切った僧侶は「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」と記録している。

2つの表記に共通する文字は「慶」なので、彼女の実名は「慶」だった可能性は高いのではないだろうか。少なくとも「豊臣兄弟!」で秀長の妻を「慶」とする根拠にはなる。

親も出身地も年齢も正確には不明

だが、親のことはもちろん出身地もわからない。秀長と同じ尾張(愛知県西部)の出身ではないか、と推測する研究者もいるが、筆者は美濃の出身ではないかと思っている。『多聞院日記』に記された「濃州女中」の「濃州」とは美濃の別称なので、この記述を信じるならば、彼女は美濃の女性ということになる(「濃中」は美濃守を称していた秀長のことだという説もある)。

美濃出身で実名は慶。その可能性は十分にありそうだが、それ以上はわからない。だが、美濃三人衆の安藤守就の娘で名は慶、というフィクションは、十分に的を射ているといえそうだ。

ちなみに、戦国史研究家の和田裕弘氏は、秀長の正室の父は〈秀長周辺の記録に見える神戸伝左衛門と思われる〉としている(『豊臣秀長』中公新書)。だが、この伝左衛門は、秀長の別妻として1人だけ名が伝わる摂取院光秀の父だ、という見解が趨勢である。ここでも父親は伝左衛門ではないものとしておく。

それでも年齢や結婚した時期はわからないが、できるところまで推測してみたい。

秀長は天正10年(1582)に丹羽長秀の三男である仙丸(のちの藤堂高吉)を、天正16年(1588)には姉の子の秀保(秀次の弟)を養子に迎えているため、男児には恵まれなかったと思われがちだが、若くして亡くなったと思われる嫡男の記録がある。