戊辰戦争で幕府から出兵要請が…
黒羽藩の軍事力は幕閣の間でも評判になっていた。戦乱の世では力のある者が重用される。増裕は慶応元年(1865)に新設された海軍奉行に任じられた。幕府海軍の最高職である。また、2年後には若年寄にも就任した。幕府では老中に次ぐ要職、外様の小藩主としては異例の抜擢だった。しかし、増裕は幕府の命運が尽きているのを悟り、この頃すでに佐幕から勤王への転換を模索していたといわれる。
増裕の若年寄就任からまもなく大政奉還が行われたが、徳川慶喜は幕軍を従えて京に居座り薩長勢力と睨みあっている。慶喜は増裕にも藩兵を率いて上洛するよう命じてきた。
藩存亡の危機の中、増裕が急死
増裕は上洛の準備を理由に江戸から帰藩する。しかし、悩んでいた。いま上洛すれば黒羽藩が戦いの矢面に立たされるだろう。難しい舵取りになる。判断を間違えれば藩が滅びるだけに、方針はなかなか定まらず、気分転換しようと狩猟にでかけることにした。獲物を追いかけて金丸八幡宮(那須神社)の社殿裏手にある雑木林に入ったのだが、ここで猟銃の暴発による事故で急死してしまう。慶応3年(1868)12月9日のことだった。
増裕の死の真相については自殺説や他殺説など様々な噂が流布した。旧黒羽藩士・小林華平が著した『黒羽藩戊辰戦史資料』では、
「増裕公郊外遊猟南金丸村八幡社裏雑木林中に於て午後二時頃西洋猟銃を以て自尽せられたり」
と、自殺説をとっている。幕府の恩に報いて佐幕を貫き滅びるか、勤王に乗り換えて藩の生き残りをめざすか。判断に悩み苦しんだあげく、鬱状態に陥っていたという。
これは増裕の側近中の側近だった弾右衛門の見解がもとになっている。弾右衛門の妻テツやチカと顔見知りだった著者の小林は、彼女らが生前の弾右衛門から聞いた話を聞き取ってこれを書いたという。

