天守がないのに「現存天守」
次に新しいのは、文化7年(1810)に竣工した弘前城(青森県弘前市)だ。寛永4年(1827)に五重天守が落雷に遭い、内部にあった煙硝が爆発して炎上して以来、天守不在が続いていたが、幕府の許可を得て本丸南東の辰巳櫓が改築された。
ただし、事実上の天守とはいえ、幕府への遠慮から「三階櫓」と呼ばれ、高さは14.4メートルと現存する三重天守ではもっとも低い。改築前の辰巳櫓の建築年代はもっとさかのぼるが、御三階櫓として竣工した文化7年の建築としていいだろう。
その次が寛延2年(1749)に完成した高知城(高知市)の四重天守。享保12年(1727)の大火で天守以下、ほとんどの建物が焼け落ち、延享3年(1746)から本丸の再建に着手された。山内一豊が建てた焼失前の天守の外観が再現されたので、江戸時代も半ばをすぎてからの建築なのに古風である。また、このとき再建された本丸が、御殿を含めてほぼ完存しているのは貴重だ。
続いて標高432メートルの山上に建つ備中松山城(岡山県高梁市)の二重天守。天和元年(1681)から城を大改修した際に建てられたと考えられる。現存最小の天守で、不便な山上に建っていたため、明治維新後に取り壊されずに済んだが、放置されて昭和初期には倒壊寸前だった。
日本最古の天守だったのに
5番目が宇和島城(愛媛県宇和島市)の三重天守で、寛文6年(1666)に完成した。藤堂高虎が建てた天守があったが、古材を多く使ったため老朽化が早かったようで、幕府に修理の名目で届け出て全面的に新築された。平和な時代に建ったので、優美な一方で戦闘的な要素は比較的少ない。
その次に新しいのが丸亀城(香川県丸亀市)で、弘前城と同じく天守代用の「三階櫓」と呼ばれていた。丸亀城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城になりながら、寛永17年(1640)に讃岐(香川県)の西半分が丸亀藩として独立し、再興された。正保2年(1645)に幕府に提出された城絵図には三階櫓が描かれており、そのころには完成したと考えられている。
そして7番目は丸岡城(福井県坂井市)である。この二重三階の天守はとても古風なので、柴田勝家の養嗣子の勝豊が天正4年(1576)に完成させた日本最古の天守だ、と長年信じられていた。ところが、平成27年(2015)からの学術調査で、酸素同位体比年輪年代調査や放射性炭素年代調査を行った結果、寛永3年(1626)以降に建てられたことが判明した。建築年代が半世紀も下ってしまったのだ。
また、昭和23年(1948)の福井地震では、天守台の石垣もろとも倒壊している。幸いにも戦前に行われた解体修理の詳細な記録が残っていて、昭和30年(1960)にもとの部材を極力使って(柱の約67%は江戸時代のもの)再建されたのだが。



