北京の新聞は「死刑執行」と報道済み
このリューバがもたらした情報と激励の言葉は、父母や弟妹たちを狂喜させたという。前年の暮に北京の一部の新聞にも李香蘭の死刑が執行されたとの記事が載り、半ばあきらめていたところだった。父はその新聞記事を切りぬき、私の死亡が確認できたらその日を私の命日と定めるつもりだったという。死刑執行日は上海の新聞が報じた「12月8日」という情報とぴったり合致していた。
李香蘭が上海の競馬場で銃殺刑に処された――ということは、日本でも戦後のある時期まで“定説”になっていたという。また戦後数年たって旧満州・大連関係者の会合に出席した際「あなた、しゃべれるのですか!」と聞かれてびっくりしたことがある。漢奸裁判で有罪判決を受けた李香蘭は、二度とうたえぬように舌を切られた、という噂が流れていたのである。
リューバは、裁判がまもなくはじまるが、漢奸容疑についての無罪を確保するには、日本国籍を証明する権威ある書類が必要だ、と言い残して宿舎の六国飯店にひきあげた。
戸籍謄本が本人の手元に届くまで
父と母は、一計を案じ私が大事にしていた藤娘の人形の帯をほどき、細ながくたたんだ戸籍謄本をぬいこんだ。そして妹の悦子にリューバの宿舎に届けさせた。悦子は藤娘に細工が施されていることも知らずに、「このお人形、上海の淑子姉さんに届けてほしいそうです」と手渡し、リューバはその木箱の包みを抱えて飛行機に乗りこんだのである。
帰国後、母は述懐した。「お父さんと私は、人形の中に謄本をしのばせたことを、悦子にもリューバにも一言もいわないことにしたの。だってリューバは戦勝国のお役人でしょう? 戦犯にひとしい敵国の被告を救済する手引きをしたとわかったら迷惑がかかると思って。ばれても、私たちが勝手に密送しようとしたのであって、リューバは知らなかったことにしたかったの」
リューバも何もたずねずに、悦子には「必ず届けますと伝えてね」とだけ言ったという。聡明なリューバのことである。詮索などするはずがなかった。私の両親に戸籍謄本の必要を訴えた翌日に小包を託されたことだけで、事情を察し、何も知らないふりをして運び役を買って出たにちがいない。収容所には使いの者に届けさせたという配慮も、そうした思いやりの延長だったのだろう。

