戸籍謄本の入手をロシア人の親友に託す
「リューバ、君は最近ハルビンや奉天に飛行機で行ったそうだね。北京にも用事で行くことはあるかい」「ええ、ときどき」
川喜多さんの頭にひらめいたアイディアは素晴らしかった。戸籍謄本を軍事法廷に提出すれば、日本国籍を証明する有力な証拠として採用されるかもしれない。「おねがい、リューバ。北京に行く機会があったら私の家に行って戸籍謄本をもらってきて」「まかしてちょうだい。近いうちに出張する用事を作るわ」
リューバは1時間ほど雑談して「また来るから、それまで元気でいてね」と手を振り、車に乗って去った。そのとき、つまり1946年(昭和21年)2月上旬以来今日まで、私は彼女に会っていない――。
「裏切り者・李香蘭は死刑に」という世論
第3回の取調べには川喜多さんがついてきてくれた。
係官は、「中国と日本双方の関係者の証言で、李香蘭が日本人・山口淑子であることはほぼ立証されつつある。しかし、一般の中国人はいぜんあなたが中国人だと思いこみ、あるいは少なくとも中国人の血が半分は流れていると信じている。その李香蘭が戦時中は華やかな銀幕生活をつうじて祖国を売っておきながら、罪を追及されだすと、今度は実は日本人だったと称して日僑区にとじこもり、日本へ逃亡しようとしている――そう思っている人が大部分だ。死刑説が流れるのは、日僑収容所から引きずりだして監獄にぶちこんで厳正な裁判にかけよ、という一種のデモンストレーションなのだ。裁判の結果、少しでも中国人の血が流れていれば漢奸として処刑すべし、というわけだ」と説明した。
「完全な日本人であることを、決定的な物証ないし権威ある証拠書類で示せば、漢奸罪に関するかぎり、“無罪”になるわけですね」と川喜多さんが聞いた。「そうだ。証言や状況証拠はたくさん集まっている。憲兵隊や裁判所の心証も悪くはない。正統な物的証拠さえあれば――」
川喜多さんは戸籍謄本なるものについて説明しだした。日本国民はすべて「家」単位の戸籍に登録され、家族の誕生、死亡、結婚、離婚などに際しては、その異動を本籍地の市町村役場に届けることが義務づけられている。
役場は、その届け出にもとづいて戸主たる家長を筆頭に全構成員について親子、兄弟姉妹などの家族関係、生年月日、出生地などを記載した人別帳ともいうべき戸籍簿原本を記録保存している。その複写をとり、事実に相違ないことを市町村長が署名捺印なついんの上、証明した文書が戸籍謄本である。これが、とりもなおさず国籍を証明する唯一の正式な文書である――。

