完璧な証拠なのに理解してもらえない

けれどこのうすっぺらなシミだらけの紙切れが国際的に通用するかどうかは別問題だった。果たして、この戸籍謄本は一応、受理されたものの、係官は「この名簿に記載された山口淑子という人物と、目の前にいるあなたが同一人物であることをどう証明するのか。指紋照合のように科学的な根拠があるわけではなし」ときわめて素っ気ない態度なのである。

そのころの中国には、日本のような厳密な戸籍制度がなかったと思う。したがって係官は、この一枚の薄い紙が持っている意味が理解できなかったのである。当時の中国の映画界では、女優はいつまでも若くいられた。本人の申告以外に年齢を証明するものがないから“自称”が通用するのである。満映にはいつまでたっても17歳の中年女優がいた。

川喜多長政氏の『私の履歴書』によれば、その間の事情はつぎのとおりである。

〈このとき初めて私は、日本人の身元証明書が、いかに粗末で怪しげなものかということを発見し、考えようによっては、日本は住みよい国だと思った。ペラペラな紙に鉄筆で読みにくい字が書きなぐってある。某々村村長の印も安っぽい。照合番号すらついていない。外国の官憲が、こんな怪しげな書類を信用するはずがない。だいいちこれでは、その山口淑子が李香蘭と同一人物だと証明できない。

そこで私は、日本に留学したことのある中国人に頼んで、憲兵に説明してもらった。問い詰められると不合理な点ばかりだが、その熱心さと、戦時中の私の行動が憲兵に知られていたおかげで、最後には「お前を信用する」と言ってくれた――〉

使命を果たし、家族を励ましてくれた親友

北京の両親から戸籍謄本の入った藤娘を受けとってくれたのは、やはりリューバだった。しかも、彼女はその使命を、だれにも迷惑がかからぬよう、さり気なくやってのけたのだった。結局彼女は、その秘密計画を事前にも事後にも他人に知られることなく実行し、成功した。この間の真相を知ったのは、父母や弟妹たちが日本に引き揚げてきてからのことである。

1946年(昭和21年)2月、家財は没収され、一家8人タケノコぐらしをしていた北京の山口家に、ある日突然、碧眼へきがんの白人女性がたずねてきた。

「お久しぶりです。おばさん!」とその外人が日本語であいさつしたので母はびっくりしてしまった。「10年以上も会っていなかったので、彼女があのパン屋の娘さんだと思いだすまでには時間がかかって」

リューバはお父さんの代理で北京に出張してきたと言い、私や川喜多さんたちは収容所に軟禁され監視されているが元気だと伝えた。

「実際に会ってきたからまちがいありません。世間には李香蘭有罪説がささやかれているけれど大丈夫。私もできるだけのことをしますから、安心して――」