NHK「ばけばけ」では、小泉八雲のモデル・ヘブン(トミー・バストウ)が亡くなるシーンが描かれた。ドラマの東京編は駆け足で進んだが、実際はどのような生活を送っていたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから史実をひも解く――。
パトリック・ラフカディオ・ハーン
パトリック・ラフカディオ・ハーン(写真= http://www.trussel.com/f_hearn.htm/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「人生は余りに短し」と晩餐会を断った

NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」もついに最終週。トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の幸せな夫婦の物語もいよいよ終焉。3月24日火曜日放送の第122回でついにヘブンは、この世を去った。

直接的な死は描かれず、場面転換でお墓という展開は見事で余計に寂しさが募る。ただ、劇中では「さみしきことが好きだったから」というセリフにマッチしていた墓地。実際の八雲の墓がある雑司が谷霊園は、関東大震災後に周辺が宅地化してしまったこともあり、今では東京メトロ有楽町線・東池袋駅から徒歩10分の賑やかなところである。

近くの花屋で、お墓参りセットも一式準備できるので、もう「ジゴクジゴク」が聞けないことに耐えられない人は、ぜひお参りを。

さて、残念なのは、東京編の時間が限られたため、モデルである小泉八雲とセツの東京生活が十分描かれなかったことだ。

実際、八雲は東京に出てから執筆活動も加速している。そのぶん、授業はするものの人付き合いは減少している。当時の40代後半となれば人生の残り時間を考える頃、交際で無駄な時間を費やすよりも、1冊でも多くの作品を残したいという執念だったのだろうか。

八雲研究者の田部隆次は東京に移ってからの八雲の業績を、このように書いている。

この時まで(注:1903年に大学を辞職するまで)に大学の講義のために、著述の暇がないとこぼしながらリッツル・ブラウンから『異国情趣と回顧』『霧の日本』『影』『日本雑録』の4冊、マックミランから『骨董』外に長谷川から4冊の『日本お伽噺』を公にして居る。さればこの頃のヘルンの刻苦精勤はめざましいものであった。晩餐の招待に「人生は余りに短し」と書いて断っているのがある。

(田部隆次『小泉八雲』北星堂書店、1950年)

他人に手を入れられるのが嫌なタイプ

約6年の間に『日本お伽噺』以外だけで5冊。そう考えると、そんな多くないようにもみえる。八雲がある程度書いた後は、協力者や編集者なりが整えるスタイルならもっと書けただろうが、そうではない。八雲本人は一言一句まで自分の手で確認し、手を入れられることを嫌がるタイプの作家である。かつ、海を越えて原稿のやり取りをしていたわけだから、校正なども含めれば、よくも短期間にここまで書けたというべきだろう。

東京帝国大学での八雲の授業時間は一定していて週5回、合計12時間で変わらなかった。短い日は1日1時間だけ、長い日でも4時間であった。とはいえ、執筆して気分が乗っていても毎日、中断して授業をしなければならないのは八雲には苦痛だったのではなかろうか。

特に、木曜日は朝10時から12時まで授業した後、残り1時間は14時からと開きがあった。その間、上野に足を伸ばして精養軒で食事をすることもあれば、三四郎池で煙草を吹かしていることもあったという。その間も「さっさと帰って、原稿の続きを書きたい」と、八雲は思っていたのではなかろうか。なお、精養軒も三四郎池も今でもあるが、最近、東大校内は原則禁煙なので三四郎池に佇んで八雲気分で煙草を吸っていると怒られる。