ヘルンの好む静寂は「美しいシャボン玉」

しかし仕事をしている時のヘルンは、最も気むずかしやの八釜やかましい主人であった。家内のちょっとした物音や話声にも、感興を破られたといって苦情を言った。夫人でさえも書斎に入ることは許されなかった。ちょうど『美しいシャボン玉』を壊さないように、注意に注意して気をつけましたと、未亡人となった夫人が後で言っている。しかしあまり部屋が乱雑に散らかるので、夫人が折を見て掃除に行くと、『あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの悪いくせです』といって、中々許してくれないので、書斎はますます乱雑になるばかりであった。

ヘルンの机の座右には、常に日本の煙草盆と煙管がそなえてあった。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出するごとに変った物を見付けて帰った。それがたまって三十本にもなってるのを、残らずヘルンは座右におき、仕事のうちにも手当り次第につかみ出しては、国分こくぶの刻煙草をつめて吸ってた。ある時夫人が、江の島に遊んだ土産みやげとして、大きな法螺貝ほらがいを買って帰った。ヘルンはそれがたいへん気に入り、『面白いの音』といいながら、頬をふくらして、ボオボオと吹き鳴らしては、また『いかに面白い』といって吹き続けた。それでその貝を机に置き、今後煙草の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くという約束にした。

西大久保の家に移った時は、ヘルン夫妻と姑の外に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、老僕ろうぼくが一人、他に抱車夫かかえしゃふが一人という大家族であったので、家も相当に広く、間数がいくつもあって廊下続きになっていた。しかしヘルンが仕事をしている時は、家人が皆神経質に注意しているので、家中がひッそりとして閑寂に静まり返っていた。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ、1892年(画像=富重利平/PD US/Wikimedia Commons

自室で法螺貝をボオボオと鳴らした

そういう時の夜などに、ヘルンの書斎から法螺貝の音が聞えて来ると、それが広い家中に響き渡って、ボオボオと余韻のなみをうって伝って来る。すると『それ貝が鳴った』とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騒ぎをし、先を争って離れの書斎に駈けつけた。『吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた』と、夫人が追想談で話しているが、おそらくそういう場合、ヘルンの筆が行き渋り、感興が中断した時であったろう。そうした時の寂しさとやるせなさを紛らすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。