織田信長が築いた安土城は、完成からわずか3年で焼失した。なぜ信長はこの地に巨大城郭を建てたのか。そこには経済都市建設という壮大な構想があった。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。

安土城「天主」が意味するもの

織田信長が、琵琶湖の東岸に位置する標高198メートルの安土山に、巨大城郭を築くことを命じたのは天正4(1576)年正月だった。これが安土城である。普請の総奉行は丹波長秀だった。

工事は急ピッチで進められ、完成した「天主てんしゅ」(城の最上部)に信長が移り住んだのが同7(1579)年だったと考えられる(『信長公記』では安土城は「天守」ではなく「天主」と表記されているため、以降「天主」で統一する)。

『江州安土古城図』には天主の他、「家康公」「羽柴秀吉」らの屋敷もあるが、江戸時代に推定で描かれた絵図になので、史実とはいえない。
『江州安土古城図』には天守(天主)の他、「家康公」「羽柴秀吉」らの屋敷もあるが、江戸時代に推定で描かれた絵図なので、史実とはいえない。出典=国立国会図書館所蔵

安土は滋賀県近江八幡市に町名として残っている。昭和の頃は「安土桃山時代」という時代区分の語源ともなっていた。最近では信長と豊臣秀吉が相次いで中央政権に君臨していたことから「織豊しょくほう時代」と言うことが多いが、呼び方が異なるだけで、安土が戦国期において重要な地・城であるとの認識は変わっていない。

なぜ、安土はそれほど特別なのか?

首都は「滋賀」だったかもしれない

それは単なる軍事拠点にとどまらず、織田信長という支配者が居住し、かつ経済の中心地として整備されつつある地だったからである。そのまま城下が順調に発展し、かつ信長が本能寺で死ぬことがなかったら、日本の首都となった可能性すら感じさせるのだ。

実際、三重大学名誉教授の藤田達生氏のように、信長は琵琶湖および太平洋・環日本海の流通の要となる首都機能「安土幕府」を開府する構想を持ち、そこに朝廷をも招き入れ、「公武一統」をもくろんでいたと分析する史学者もいる。

 安土城址の調査に関わった考古学者の木戸雅寿氏も、首都となりそこなった町といえるかもしれないと、安土が持っていた可能性を示唆している。

ひるがえって、徳川家康が江戸に入府した天正18(1590)年の時点では、まさか25年後の慶長20(1615)年に豊臣が滅び、江戸が実質的な首都となるなどと想像した人は、皆無だったろう。だが、考えもしなかったことが、本当に起きた。

戦国時代の権力者には、四半世紀もあれば新たに首都を築くことが可能だったという証左でもある。

信長は永禄10(1567)年、美濃斎藤氏から稲葉山城を奪取して岐阜城と改名した際、本丸に大きなやぐらを設置する修築を行った。櫓は敵の動向を見張る偵察拠点であり、そこから弓を射て敵を近付けないための防衛的な意味合いも持っていた。

安土城ではその櫓を、ひときわ絢爛豪華に造った。これによって単なる防衛施設ではない、天下人の権威を示す建造物「天主」が誕生した。