フロイス「ヨーロッパの塔より気品がある」
安土城の具体的な威容は『信長公記』やイエズス会宣教師、ルイス・フロイスの記録などから、ある程度は推定が可能だという。史料から推論すると五重六階・地下一階で全高は約32メートル、もしくは約46メートルなど、見解は分かれている。いずれにせよ、数十メートルの建物が標高198メートルの山の頂に立っていたのだから、壮観だったに違いない。
最上階の信長居住スペースである天主は、一辺が三間(約5.45メートル)の正方形の望楼(周囲を見渡せる建造物)だった。
天主の周囲には廻縁と呼ばれる縁側を設け、転落防止の高欄(手すり)が付いていた。廻縁と高欄は鮮やかな朱塗りだったと考えられ、遠くから見ても映えた。また全階が書院造りだったという。
フロイスは「ヨーロッパの塔よりも気品がある壮大な建築で、(天主は)日本の諸国のはるか彼方から眺めるだけで、見る者に喜悦と満足を与えた」と記している。
天下布武(畿内制覇)に近づいていた信長の威厳を見せつける、独創・先進的な「見る者を魅了する城」といってよかった。
完成から3年で主を失い焼失
だが天正10(1582)年、信長は本能寺の変で没する。主を失った城に明智光秀が一時的に入ったものの、直後に羽柴秀吉との山崎の戦いに敗北し、安土城も焼失した。
焼失の正確な原因は不明だが、小瀬甫庵が著した秀吉の伝記『太閤記』は、光秀の重臣である明智左馬助(秀満)が山崎から撤退する際に「殿守に火をかけ」と記載している。一方、キリスト教宣教師たちの記録『耶蘇会日本年報』は、信長の次男・信雄が明智の残党を炙り出そうと城下に放火したところ、城にまで延焼したと書いている。
城の完成からわずか3年で、安土城はその役割を終えた。現在は天守台の礎石(土台)などの遺構が残るほか、金箔を施した瓦などが発掘調査で出土している。

