経済・軍事の中心地へ――信長が描いた夢
信長が琵琶湖東岸の安土の地に着目した理由は、いくつかある。第一に、京へ行き来する際の利便性だ。片道1日とかからず、かつ中部・北陸の各所へ移動するにも容易だった。
第二に、軍事面。当時、越後(新潟県)の上杉謙信との戦いは喫緊の課題であり、北国街道を抑えるうえで安土は重要な拠点だった。
第三に、琵琶湖の水運の中心地として発展させる狙いがあったと考えられる。実際、北に羽柴秀吉の長浜城、安土の対岸に甥・織田信澄の大溝城、琵琶湖西南に明智光秀の坂本城の3つの城を配し、湖上交通と軍事ネットワークを完成させている。これによって大量の物資・兵力を輸送できた。
そもそも安土には豊浦・常楽寺という琵琶湖の港が2つあり、そこから無数の水路が城下に走っていた。「安土八幡の水郷」と呼ばれる由縁だ。
信長はそこに、岐阜から安土を経由して京に向かう下街道を合流させ、また安土から中山道へと続く道など陸路のインフラを整備した。
天正5(1577)年には、十三ヶ条の掟書を安土城下に発布している。これは城下の治安保障を信長が担い、かつ住民の税負担を軽減するなど、商取引の自由化を図るものだった。安土に集まる人々の権利を守ると同時に、彼らの商活動の掌握も図ったのである。
信長は水陸の交通を発達させた一大商業都市を建設し、自らの傘下に置こうとした。
それはまた、いずれ安土を日本の中心にしたいという、壮大な夢の第一歩だったのではないだろうか。
4つの城に共通する「経済都市の建設」
信長は居城をたびたび変える武将だった。例えば武田信玄なら山梨県甲府の躑躅ヶ崎館、上杉謙信なら新潟県上越の春日山城を拠点とし続けたのに対し、信長は那古野城→清須城→小牧山城→岐阜城、そして安土城と、居城を4回変えている(地図参照)。
もっともこの内、那古野城は父の信秀から譲り受けた城である。また清須城は織田一族の内紛を平定する過程で奪い取った城だが、尾張の中央に位置する交通の要衝という以上の意味は、持っていなかったと思われる。
それに対し、明確な意図を持って自ら築城し、拠点としたのが小牧山城だろう。その意図とは、一般的には美濃斎藤氏攻略の拠点だったというのが定説だが、同時に商業都市を形成する狙いがあった。
事実、小牧山城下には、商人や職人を職能ごとに集住させる町割が採用されていた。例えば染め物職人の「紺屋町」、鍛治職人の「鍛冶屋町」、油商人の住む「油屋町」といった町名が存在し、商都の形成を意識していたことがわかる。
さらに岐阜城では、近隣の加納を中心に楽市楽座を開いた。商人らに交通の自由や課税免除などの特権を認め、城下の活性化に努めた。相次ぐ戦乱からの復興も企図していたと考えられる。
そして安土城下でも、一大商業地の建設を試みている。つまり信長の城は、イコール城下を中心とした「一大経済都市の建設」を意味しているといってよい。
商業によって領内の経済活性化を図ろうとした戦国大名は、信長のほかにもいる。今川氏(駿河)も、北条氏(相模・武蔵)も行った政策だ。

