友人宛ての手紙に「熊本は大嫌い」
夫婦関係や家庭生活の成熟をよそに、近代化が進み、昔ながらの世界が失われつつあった熊本は、ハーンを苛立たせていた。金毘羅参りを報告した西田宛の手紙は、「熊本が日本であるとは全然思われない。熊本は大嫌いだ」で結ばれている。
ハーンの熊本への嫌悪はすぐにも、学校の同僚たちとの感情的な軋轢に発展する。東京・横浜での夏休みを挟んで、それは、感じやすく激しやすいハーンの側で、極限に達した。10月上旬、熊本での生活は破綻を来たし、一家を引き連れ、逃げるようにして神戸に移る。しばらくは、熊本で受けた心の打撃が日本人全般の不信にまで広がり、西田への手紙にさえ、「日本人を理解できると信ずる外国人は、何と愚かであろう!」と書くほどであった。万右衛門が松江に帰り、神戸到着から、養父母と2人の女中との暮らしが、2度の転居を入れて2年近く続くことになる。
『神戸クロニクル』という英字新聞の論説記者の仕事は、目の酷使による眼病から3週間の臥辱を強いられてやめ、翌年の1月からは早くも、著述に専念する生活に入った。そして、この文学活動の面では、彼の人生を画する局面に入っていたのである。
神戸到着の11日前に出版された『知られぬ日本の面影』は大成功で、年末までのわずか3カ月で3刷を重ね、ハーンは世界的名声を得るに至った。年が明けての3月には『東の国から』が、さらに翌年(1896)の3月には、日本での第3作で、広く名作としての評価が高い『心』が出版される。



