熊本では順調に貯金が増えた
ハーンの日本での第1作で出世作となるのは、『知られぬ日本の面影』である。彼は既に、その最終校正を発送していた。ところが、契約条件への怒りに駆られ、出版契約書を突き返すようなことをした。それとても、ハーンの表情から状況を察したセツが、ポストではなしに抽出しに投函していて、トラブルを免れていたのである。
熊本来住の1年後に転居した家には、書斎に当てた八畳の離れに、薪ストーブと硝子障子を入れて、ハーンは二冬とも快適に過ごしている。また、150坪もある庭では、金十郎(セツの養父)から弓の指南を受け、その独眼での首尾に気を良くしていた。さらには、貯金も順調に増えて、セツは、経済的な安心を覚えるようにもなっていたのである。
彼女は確かに家計に気を配った。東京時代のものだが、ハーンの草稿の裏を使った家計簿が現在に伝わっている。そこには、日々の支出及び月々の支出の合計から1年の総計までが、事細かに記入されていて、彼女の金銭管理の様子が窺われる。ハーンは寄附などに無雑作であり、たとえば前年(1893)の10月に起きた松江の洪水に際しては、50円の義援金を送っていた。
貧困を経験したセツの金銭感覚
ただし、セツは、貧の窮地に追い遣られた体験を厭というほどに積んでいる。ハーンも、横浜での金銭的窮迫を含めて、生涯に何度も命を危くする金銭的危機に身を晒していたのであり、その話を聞かされていただろう。熊本での生活の終わりに、ハーンが老友のワトキン宛の手紙(1894・9・14)に記した貯金の額は、「四千ドル(4000円相当、現在の価値で1億6000万円ほど)近く」で、その額は熊本時代3年間の月給の半分余りに当たるが、西田千太郎(ハーンの友人で松江の英語教師)の給与の7年分に近く、折戸徳三郎(松江中学書記)のそれの28年近くに達していたのであった。
ハーン来日の1890年に、1円が0.95ドルだったものが、95年までに0.5ドルに落ち、以後、2年後の金本位制実施を挟んで、ハーンの他界まで同じ水準が続く。ただし、手紙では来日時の交換率が使われたと見るべきであろう。


