奔放すぎる“恋多き”皇族

林氏の短編小説集の最初に収録されている「綸言汗の如し」の主人公は、久邇宮家の第3代当主であった朝融あさあきら王である。その妹は、昭和天皇と結婚した良子ながこ皇后であった。

久邇宮朝融王(1901~1959)
久邇宮朝融王(1901~1959)(写真=国立国会図書館アーカイブ/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

朝融王は旧姫路藩藩主であった酒井家の菊子を見初め婚約をするのだが、途中で嫌になってしまい破談にする。皇族の婚約には天皇の許可がいる。それをくつがえしてしまったわけだから、これは大きな騒ぎになった。

その後、朝融王は伏見宮家の知子女王と結婚するものの、妻のいない隙に侍女と関係を持ち、しかも妊娠させてしまう。その子どもは養子に出されるが、朝融王の女性関係はそれにとどまらなかった。朝融王には妻との間に8人の子どもができたが、他に10人を超える子どもをつくったらしい。

朝融王の子孫となる男子は、先祖とは異なり、品行方正な人生を歩んでいることだろう。しかし、久邇宮家の男子が養子に応じるとしたら、世間は必ずや朝融王の奔放な人生に注目し、メディアもそれを詳しく報じるであろう。まして現代はSNSの社会であり、誰もが情報を発信できる。

その点で、久邇宮家の男子が手を挙げることは考えられない。挙げたら、とんでもない目に遭うことがわかっているからだ。皇族としても、そこから養子をとることには難色を示すであろう。

旧宮家養子案が行きづまるワケ

では、そうなったとき、他の旧宮家から手が挙がるだろうか。

その可能性があるのは賀陽かや宮家、竹田宮家、東久邇ひがしくに宮家しかない。

その中では賀陽宮家の創設が最も古く1900(明治33)年のことである。となれば、養子は賀陽宮家からとなるであろうが、そこが手を挙げれば、なぜ久邇宮家からではないのかとも言われるであろう。となれば、賀陽宮家からも難しく、まして、歴史の浅い竹田宮家や東久邇宮家から養子に入るのは考えにくい。

そうした旧宮家の内情を考えてみれば、養子案の実現が相当に難しいことがわかる。養子案を推奨してきた保守派は、その困難さを十分には認識していないように思われる。

皇室典範が改正され、皇族が旧宮家から養子をとることが可能になったとしても、誰も手を挙げなければ、それは実現されない。その後、いくら時間をとっても、事態は変わらないであろう。

そうなると、皇位継承の安定化、皇族数の確保の問題は、今以上に深刻なものになる。となれば、もう一つ議論になってきた「女性宮家の創設」ということになるであろう。他に選択肢はない。

ただ、養子案が頓挫した以上、皇族の数を増やすには、女性の皇族と結婚した配偶者と子どもを皇族にするしかなくなる。後は、悠仁親王と、そこに子どもが生まれることを期待するしかない。しかしそれは、親王の結婚相手に今以上にプレッシャーをかけることになり、事態はさらに難しさを増す。

女性天皇や女系天皇への道を開いておく。それが不可欠の手立てとして浮上する。「愛子天皇」待望論は、冒頭にも指摘したように、新たな局面を迎えようとしているのである。

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