お家芸は「スネーク・ダンス」
この頃、ヌードダンサーたちは百花繚乱だった。ジプシー・ローズはエキゾティックな容貌と豊満な身体で腰をゆするグラインドで人気を得、R・テンプルはアクロバットが売りだった。メリーのお家芸は身体を蛇のようにくねらせるスネーク・ダンス。本人は「松原流というようなもの」と語っていた。また、演目によってはマリンバを操ることもあり、とても上手だった。
メリーのごひいき筋は作家の村松翔風や高見順、田村泰次郎など作家が多く、細身のためか外国人にもモテた。アメリカの雑誌に掲載されたメリーの写真の切り抜きを入れたエアメールが届いたこともあった。そこには「第一問、アメリカ人と結婚してもいいか、第二問、結婚したらアメリカに移住する意志はあるか、第三問、彼女は未婚なりや、第四問、住所、名前、結婚の申し込みをうけてくれるかどうか」とあり、メリーが既婚者でも申し込むつもりだったのかと演出家の丸尾長顕と笑いあった。メリーは結婚するなら日本人がいいという考えで、手紙は黙殺した。実はひそかに恋愛もしていた。相手はファンや芸人。でも結婚したいと思う相手ではなかった。
この全盛期に、メリーは下宿屋を営む母の手引きで「経済五か年計画」を実行していた。地道に給料の天引き貯金をしたり、東宝から金を借りたりして引退後の資産を形成したのだ。ダンサーたちのなかには、男性にだまされたりアルコールやヒロポンの依存症で落ちぶれる者も多かったが、メリーがその他のヌードダンサーと一線を画すエキセントリックな所以はここにある。
ストリップが飽きられ始める
1953(昭和28)年、朝鮮戦争が終わると景気が悪化し、劇場は軒並み廃館した。またこの頃、公園劇場とロック座に手入れが入り、前者は剣劇に鞍替えした。この2年ほど前から女剣劇のブームがあり、大江美智子一座、浅香光代一座などが続々と浅草に進出していた。その魅力について読売新聞では「主婦たちは舞台で大の男をバタバタ斬り捨てる大江に家庭でのウップンを発散出来るらしいし、女学生たちは少女歌劇のスタアに憧れるのと同じ気持ちだろう。男の客は性別の倒錯したところにエロを感じるらしい」としている(「女剣劇時代」)。
実際、ストリップは少し飽きられていた。ヌードであれば何でもウケる時代は過ぎ、風呂桶を持ち込んで客に背中を流させたり、望遠鏡のように覗かせたりと際物も増えてきた。
そんななかで、日劇ミュージックホールは赤じゅうたんのロビーや巨大な円形のせり出し、豪華なスタッフ陣を揃えて、気を吐いた。幕間のコメディも含めてしゃれた雰囲気が漂う大人の遊び場だった。外国人客が4割を占め、ホテルのフロントでチケットを買うほどの名所になっていたのだ。1954(昭和29)年1月の公演「花は絢爛と夜開く」は3カ月のロングランで観客動員数12万6000人、総売り上げ5300万円といわれた。

