ストリップショー掛け持ちで荒稼ぎ
どこに行っても大入り満員、1日に何回もショーをやり、終われば新しい演目の振り付けで、くたくたの毎日だった。そのうち矢野とトラブルになり、疲労とストレスをごまかすためにヒロポンを打ち始めた。当時は違法ではなかったために、ステージ前の景気付けとしか思わなかったが、もともと細身だったメリーはみるみる痩せ、病気になってしまった。
8月に松竹映画『裸の天使』に出演したものの、ショーは休みがちになり、結局ほぼ一年近い休養をとることとなった。矢野とは袂を分かち、休みの間に文化学院に通学、「服部・島田バレエ団」に入団してダンスの技を磨いた。
折しも、日劇小劇場は公職追放が解かれた小林一三が東宝に帰ってきたときだった。1952(昭和27)年1月のことである。
小林一三といえば、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝の社長であり、宝塚少女歌劇団(現宝塚歌劇団)の生みの親である。宝塚歌劇団のモットーは「清く正しく美しく」、バーレスクとはあまりにもイメージがそぐわない。日劇小劇場のありさまを見て「丸の内で女郎屋をやる気はない」と怒り、鶴の一声でお取りつぶしとなった。
東宝の小林一三は「裸」を封印
ダンサーたちは反発し、1月8日には4回の公演を2回でやめてストライキを始めた。翌9日に出勤してきたのは2、3人。その後、支配人の説得で1月いっぱいを何とか乗り切ったが最終日には紙コップを持った観客にダンサーたちが涙ながらに日本酒を注いだ。
2カ月後、日劇小劇場は日劇ミュージックホールと名を改めて裸を封印、越路吹雪を据えた「東京のイブ」で再スタートしたが、散々の不入りで1公演500万円の損失が出た。その後も新人ヌードと謳ってみたが振るわないので、メリーを始め、ヒロセ元美、伊吹まりを引き抜き、「ストリップは廃業、これからはヌード芸術にまい進します」と言わせ、あくまで「芸術」を前面に出して巻き返しを図った。
6月、「ジャングル・ラブ」が幕を開けると超満員の大盛況。日本人から外国人まで押すな押すなと詰めかけた。1カ月公演の予定が3カ月のロングランになり、公演終了ごとに3カ月分のボーナスが出た。ただし、ストリップという言葉は禁句で、あくまでヌードと言った。
興味深いのは、着衣でメリーたちと一緒に踊る日劇ダンシングチームのダンサーたちの意見。「はじめはとてもいやでした。客の眼が私の踊りよりヌードの方へいってしまうのがありありとわかるんです。無視されている気持ちばかりか、私の衣装をはいで中身を見るような眼つきまで感じました。ファンからなんべんもやめるように忠告をうけましたし、泣きたくなったこともなんべんもありました」。稼ぎ頭で給料も普通のダンサーより高いヌードダンサーたちだったが、やはり偏見も根強かった。

