「武力を持たぬ天皇」は圧倒的に不利
家康が豊臣家を滅ぼした大坂の陣は、1614(慶長19)年の冬の陣と、翌年の夏の陣の2回行われています。真田幸村の活躍が語り継がれ、何か豊臣方にも勝機があったかのように思われがちですが、善戦は局地戦だけで、大局的に見ればワンサイドゲームです。
この冬の陣に後水尾天皇は介入しようとして、あっさり勅命和議を拒否されます。まだ天皇、即位3年目の18歳。百戦錬磨の天下人である家康(当時73歳)と張り合うには若すぎました。ちなみに正親町天皇は信長より18歳年上。武力を持たぬ天皇が最高権力者と対峙するには、年齢とそれに伴う経験が必要なのです。
家康からしたら、「天皇に頼らずとも豊臣など滅ぼされるのに、余計な借りは作りたくない」です。
1614年4月、秀忠は娘の和子を天皇に入内させると決めています。いずれ和子が産んだ子、つまり孫を天皇にする気、満々です。家康・秀忠親子は、皇室を徳川の支配下に置きたいのに、格下と思っている婿殿の恩を受ける気などありません。
それどころか、前代未聞の法令を押し付けました。禁中並公家中諸法度です。ちなみに「公家諸法度」でも間違いではないですが、「公家中諸法度」が広く使われたようです。
法律で天皇を支配した
何が前代未聞か。天皇を成文法で規定したところです。
公家の憲法とも言うべき律令には、天皇の規定などありません。天皇は存在するのが前提であり、法の上にある支配者だからです。もっとも、これは建前で、実際は万能の権力者でも何でもないですが。
ところが家康は、その建前をぶち壊し、天皇に法令で義務を課しました。義務を課すとは、支配することと同じです。
第一条に「一 天子諸芸能之事、第一御学問也。(中略)所載禁秘抄御習学専要候事。」とあります。訳すと「天皇はまず学芸を身に着けろ、(中国の古典にも書いてあるし、宇多天皇もそう言ってるし、和歌とかつまんないけど伝統なんだから続けるべきだし、順徳天皇も)『禁秘抄』で書いている」です。
要するに、「天皇は勉強しっかりやれ」って、教育パパゴンのお説教。天皇からしたら、余計なお世話です。


