「ときどき迷惑」な秀吉、「嫌な奴」だった家康

1603年、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍に任じます。名実ともに、江戸幕府による、江戸時代の開始です。

家康は2年後、息子の秀忠に将軍職を譲ります。ただし、「大御所」として実権は握り続けます。「天下は徳川のもの(で世襲)だ。(豊臣には返さない)」との宣言に他なりません。その後、ジリジリと追い詰められた豊臣氏が、大阪の陣(1614~15年)で滅ぼされるのは、教科書で習う通り。

さて家康・秀忠親子、豊臣つぶしの傍らで、朝廷いびりもやっているのです。

朝廷から見て秀吉は「ありがたいけど、ときどき迷惑」でしたが、家康秀忠親子は「ハッキリ嫌な奴」です。

秀吉と違って、家康には必要以上に朝廷をありがたがる理由は、ありません。「俺は力で勝った。全員が従え」で終了です。朝廷の権威が必要だとしても、最低限で良いのです。もちろん、自分が天皇になろうとでもしたら、「なんでお前が」となって面倒臭いから、それはやらないのですが。

将軍となった秀忠は、譲位に備えて仙洞御所を用意し始めます。天皇が譲位の意向を最初に示してから、7年。しかし、あれやこれやと理由をつけて、家康と秀忠は譲位させません。

そんな1609年、猪熊事件が発生します。

天皇をコケにする家康

当時は「傾奇者」と称するファッション&素行の不良が流行していました。下っ端の公家である猪熊教利も、その一人でした。顔だけはイケメンだったようですが。その猪熊らと官女の密通(要するに不良仲間で色んな女とヤリまくりの乱交)が発覚。

官女は天皇に仕える女性で、時に天皇の妻となる可能性もあります。要するに今風の感覚で言えば、天皇が部下に女を寝取られたのです。当然、メンツをつぶされた天皇は激怒。厳罰を宣言します。

しかし、家康と秀忠は「まあまあ、事件の真相をよく調べてからにしましょう」などと、言葉の表面だけの正論を主張。結果的に、首謀者の猪熊ともう一人だけは死刑ですが、他の男は島流しで許してあげる。女も5人だけを島流しにして終わり。

制作・著作:浜松市
制作・著作:浜松市(写真=ヒラタイプ/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

朝廷の多数も幕府の処分をやむなしとし、孤立した天皇も屈服。

翌1610年、家康も譲位を了承します。しかし、「娘が亡くなったんで、ウチの葬式をしなきゃいけないんで、譲位は延期ね」とかふざけた態度。これも天皇は呑まされます。

ようやく1611年、譲位ができました。家康秀忠親子は、徹底的に後陽成天皇をコケにして、ギリギリまでいびった上で「譲位をさせてやろう」とばかりの態度で、認めました。

こんな調子で、院政ができるはずもありません。憤懣やるかたない後陽成上皇、息子の新帝にも嫌がらせを始める始末。引継ぎもマトモにしないとか。それ会社でやったら、怒られるぞレベル。当然、当たられた後水尾帝は、父を憎むようになります。

ただ、徳川の圧迫はこんなものではなく、さらに調子に乗ります。

しかし、英主の後水尾天皇は、黙ってやられてばかりではありません。