秀吉の死が政界に不穏を招いた

1598(慶長3)年8月、秀吉が死去します。秀吉の死は公式には隠されていましたが、すぐに公然の秘密、つまりバレバレになりました。

なんだかんだの蜜月関係を築いていた秀吉の死と前後して、天皇も体調を崩していました。天皇、譲位をしたいと言い出します。なら、仕方ない。ただ、弟の「八条宮に譲りたい」と言い出したのには、みんな「なんで?」と困惑。既述の通り、八条宮(智仁親王)は、秀吉の養子になったこともあります。つまり臣下になる予定だった皇族。息子の良仁親王がいるのに?

しかし、後陽成天皇は良仁親王を「若宮」と呼ばず、異母弟を「若宮」と呼ぶようになっていました。この時代、立太子の儀式が絶えていて、時の天皇が「若宮」とか「一宮」 と呼ぶと、周囲が「ああ、この子が次の天皇になるんだな」と認識する運用でした。正式な皇太子はいなくても、儲君ちょくんはいました。