秀吉の死が政界に不穏を招いた
1598(慶長3)年8月、秀吉が死去します。秀吉の死は公式には隠されていましたが、すぐに公然の秘密、つまりバレバレになりました。
なんだかんだの蜜月関係を築いていた秀吉の死と前後して、天皇も体調を崩していました。天皇、譲位をしたいと言い出します。なら、仕方ない。ただ、弟の「八条宮に譲りたい」と言い出したのには、みんな「なんで?」と困惑。既述の通り、八条宮(智仁親王)は、秀吉の養子になったこともあります。つまり臣下になる予定だった皇族。息子の良仁親王がいるのに?
しかし、後陽成天皇は良仁親王を「若宮」と呼ばず、異母弟を「若宮」と呼ぶようになっていました。この時代、立太子の儀式が絶えていて、時の天皇が「若宮」とか「一宮」 と呼ぶと、周囲が「ああ、この子が次の天皇になるんだな」と認識する運用でした。正式な皇太子はいなくても、儲君はいました。
要するに、天皇の心変わりです。
それにしても絶対権力者である豊臣秀吉の死は、政界に不穏を招いています。おそらく息子の良仁親王に譲ると言えば何の問題も無かったでしょうが、秀吉死後に儲君交代での譲位を言い出す。さすがに政治センスが無さ過ぎです。
結果的に、譲位は沙汰やみとなりました。
ところで、中世史家の多くは「歴代武家政権は、朝廷を滅ぼすとかえって不都合なので滅ぼさなかっただけ」などと考える人が多いのですが、秀吉には当てはまらないことが多いのです。だから皇室史学者として『秀吉再考』を書いたのですが。
ただ家康の場合には、大いに当てはまります。
なんとか和平したかった天皇
後陽成天皇の踏んだり蹴ったり人生、ここからが本番です。
秀吉死後の覇権争いは、徳川家康の勝利に終わったのは、日本人なら誰でも知っています。石田三成が結集した西軍を徳川家康率いる東軍が、関ケ原の戦いで鎧袖一触。豊臣家を守ろうとした三成の努力はあえなく粉砕され、徳川の天下となりました。
天皇、局地戦の田辺城の戦いでは、活躍しています。立てこもるのは文武両道に優れた細川幽斎。お公家さんにも歌道を教える第一級の文化人で、『古今和歌集』の秘伝の解釈である「古今伝授」も受け継いでいます。天皇は「幽斎が死んだら古今伝授が絶えてしまう!」と、幽斎の歌の弟子でもある八条宮らを勅使として派遣、勅命和議による平和裏の開城に漕ぎつけました。
これを「後陽成天皇、最後の輝き」と言ったら怒られるのでしょうが。ちなみに天皇、確かに多くの学芸に秀でた方だったので、和平に熱心でした。
天皇は、第一皇子の良仁親王を出家させます。そして、関ケ原の戦いから三カ月後の1600(慶長5)年12月、後に後水尾天皇となる、第三皇子の若宮に親王宣下します。政仁親王です。そして儲君とします。
この時、立太子の礼を復活させようとしたようですが、断念しました。後陽成天皇は色々と朝儀を復活させるのですが、すぐに途絶してしまいます(藤田覚『江戸時代の天皇』講談社、2018年、108頁)。

