龍興の“責任転嫁”

山梨県甲斐市に残る「中島家旧蔵文書(武田氏が国外における動静をまとめたもの)」では、龍興側の視点で、この争いが記されている。

斎藤龍興の浮世絵
斎藤龍興の浮世絵(写真=『太平記英勇傳 斎藤竜興』/歌川芳幾画/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これによれば、龍興側は「義秋さまが上洛されるということであれば、休戦しすぐに参陣する」「こっちは戦わないというのに、信長が参陣しない」「もし信長に敗北したら屈するつもりですが、義秋様が戦うなといってますよね。細川藤孝(義秋の家臣)も、信長をどう罰するべきかといってます」などと主張している。

完全に責任転嫁である。三好三人衆から「義秋の上洛を阻止しろ」と頼まれて承諾したくせに、表向きは「義秋様のためを思って」と言っている。しかも「細川藤孝(義秋の側近)も信長を罰するべきだと言ってる」と、義秋の家臣を引き合いに出している。

挙げ句の果てには「三好三人衆が義栄を将軍にするつもりだが、これも信長のせいで致し方ない」ということまで言い出しているのだ。そして、文書にはこう記す。

織上、天下の嘲弄、これに過ぐべからず候。

これは、信長が義秋を奉じて、自分たちのところに参陣しないのは、天下の笑い者としてこれ以上のものはないということである。

義秋に見捨てられた信長、「天下の笑い者」に

ここまで屁理屈を使われて信長も激怒したことだろう。しかし、折しも木曽川は増水の時期。渡河した信長勢であったが、瞬く間に敗退し、撤退を余儀なくされ多数の溺死者まで出たという。

呆れた義秋は、信長にさっさと見切りを付けて若狭へと去って行ったのである。

龍興に屁理屈で翻弄され、木曽川で敗北し、多数の溺死者を出し、挙げ句の果てに義秋にまで見捨てられた。

「天下の笑い者」

龍興にそう罵られた信長は、文字通り天下の笑い者になったのである。

だが、信長はここで諦めなかった。翌1567年、信長はついに稲葉山城を攻略し、美濃を平定する。そして「岐阜」と改名し、「天下布武」を掲げた。地元市場を整備するのに8年、隣県に進出してシェアを獲得するまで7年。全キャリアの半分を使い、屈辱的な敗北まで経験して、ようやく信長は「全国展開できる企業」へと生まれ変わったのである。

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