“京都の混乱”に乗じた信長の思惑
このとき、義秋が頼みにしたのが義輝と親しくしていた謙信と信長であった。そこで、義秋は美濃の龍興と信長の和平を仲介。信長に上洛を要請する。
信長にとってはこれほどの好機はない。室町幕府の権力が失われたとはいえ、いまだ権威はある。首尾良く義秋が将軍になれば、その上洛を支援した信長の名声は高まる。その余力で、労せずして美濃を手に入れることも出来るかもしれない。
信長は、小躍りして喜んだだろう。
『多聞院日記』によれば、1566(永禄9)年8月、信長は義秋宛てにこんな書状を送っている。
この時点で、「三河・美濃・伊勢(に尾張を加えた)四カ国が出陣する」と断言している。つまり、信長はこの時点で、美濃を自分の勢力圏に入れたつもりでいたのである。
三好三人衆は足利義栄を擁立
いや、もちろんそんなわけはない。将来の将軍……になるかも知れない相手に、自分をめちゃくちゃ盛って見せたのである。しかし、盛るにしてもやりすぎだ。高卒なのに「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した後、パリに留学しましてね」とかいってるようなものだ。
もしかすると、ここまで盛ることで「こうなったら、どうやっても美濃を手に入れなければならない」と自分を追い込んでいたのかもしれない。
ともあれ、将軍候補と共に上洛するといえば、龍興も手を出せまい。そう思っていたら、甘かった。京都は刻一刻と事態が変わっていた。共に義輝を倒した三好三人衆と松永久秀は決裂。その三好三人衆は自分たちの本拠地である阿波にいた足利義栄を将軍とするべく工作をしていた。
そうなると、まずいのは上洛を狙っている義秋だ。さっそく龍興に使者が送られ上洛の阻止が求められた。通過されるだけでも影響力拡大を危惧する龍興はさっそく承諾した。
こうして8月29日に両軍は木曽川を挟んで対峙する。悲惨なのは義秋である。将来の将軍である自分が上洛するだけなのだから、諸大名も無碍にはしないかと思いきや、両軍は全力でやる気である。
それも、全力でやる気というよりはお互いに屁理屈を使ってでも相手に非があることにしようとしている。

