「天下取り」と「親戚づきあい」に挟まれた信長

信長としては、こういう身内が一番厄介だった。

敵なら戦えばいい。味方なら信頼すればいい。だが、信清のような「味方のフリをした敵でも、敵のフリをした味方でもない、ただただ面倒くさい身内」は、どう扱えばいいのかわからない。

結局、信清は1562(永禄5)年に信長に反旗を翻している。これに対して、信長も和解ではなく対決を選択。1564(永禄7)年に犬山城を陥落させ、信清は武田氏を頼って甲斐国へ逃亡した。

信清自身はこれで歴史の表舞台からは姿を消すのだが、娘の一人が後に信長の息子・信雄の養女となっているところをみると、なんらかの関係だけは保っていたのだろう。

「天下を取る」とか言ってる一方で、面倒くさい親戚づきあいもしなくてはいけない信長は、なかなか大変である。

さて、こんな面倒くさい親戚もいるくらいだから、平定したとはいえ家中が統一できているわけではない。なにより、信秀の代からようやく成し遂げた尾張の平定だ。古参の家臣には「もうこれで満足、なんで美濃まで攻略しなくちゃいけないんだ」と考える者もいるだろう。中には「ここまで急に拡大したんだから、もっと足場を固めないと」とかしたり顔でいってくるヤツもいただろう。

だから、時期を見極めなければいけなかった。

織田信長像
織田信長像(写真=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

上杉謙信や武田信玄への“根回し”で足場固め

天皇の勅命である。「美濃を平定して、京都への道を開き、御所を修理せよ」こんな錦の御旗があれば、周囲に対しても堂々と美濃攻略を進められる。

「これは私欲ではない。天皇の命令だ」

とはいえ、あくまで大義名分。朝廷がなにかやってくれるわけではない。兵を出してくれるわけでもなければ、金をくれるわけでもない。「頑張ってね」と言われただけである。

だから信長も慎重である。この時期から、信長は上杉謙信や武田信玄と盛んに友好関係を結んで美濃侵攻の足場を固めている。

要は「美濃はうちが攻めるので、ひとつよろしく」と挨拶をしていたわけだ。謙信や信玄は、美濃に近い越後や甲斐を拠点にしている大勢力だ。もし彼らが「美濃は俺のものだ」と言い出したら、信長は面倒なことになる。だから事前に根回しをしておく。

「美濃はこっちでやりますんで、そっちは手を出さないでくださいね」
「ああ、いいよ。頑張って」

こういう外交的な合意を、地道に積み重ねていたのである。

こうしてようやく足場を固め始めたところで、好機が訪れた。1565(永禄8)年、将軍足利義輝が三好氏らに殺害される永禄の変である。この時、兄が殺されたと危機、いち早く京都を脱出したのが出家していた弟の覚慶……室町幕府最後の将軍となる足利義秋(後に義昭)である。