秀長は天文9(1540)年3月2日誕生。秀吉の3歳年下だ。幼名は一般的に「小一郎」が知られるが、『太閤素性記』は父の筑阿弥の「筑」にちなんで秀吉・秀長ともに「小竹(こちく)」と呼ばれていたとあるだけで、かつ秀長の「小竹はあだ名に過ぎない」と注釈を入れている。つまり本当の幼名は不明。

『甫庵太閤記』にも登場するが、のちに秀吉によって処刑される甥の秀次同様、「いずれかひとり御用に立給(たちたま)ひつる」――複数いる身内のうちの役に立つ程度の1人――と、にべもない。

書状に初めて名が出るのは天正元(1573)年、「木下小一郎長秀」(ここでは長秀)の署名が見られる。天正元年は、秀吉が近江国(滋賀県)長浜城の城主となった年だ。浅井長政・朝倉義景を滅ぼした信長が彼らの旧領を秀吉に与えたその年、小一郎は歴史の表舞台に顔を出す。

藤堂高虎の伝記に登場する秀長像

現在、私たちが秀長に持つイメージは、家を出て行った兄が突然舞い戻り、「織田信長様に仕官したから部下となって自分を支えてほしい」と頼まれ、渋々承知して次第に右腕として頭角を現すというもの。決して悪い印象ではない。

「豊臣秀長像」、奈良・春岳院蔵
「豊臣秀長像」奈良・春岳院蔵(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

といっても、これもたぶんにドラマや小説の産物である。

まったく根拠がないわけでもない。秀長に仕えた藤堂高虎の伝記として編纂された『聿脩録』(いしゅうろく)に次のように一文が見え、こうした史料が秀長の人物像の鍵となっているようだ。

「秀長は温厚であり、よく太閤を助け偉業をなさしめた。それゆえ諸大名は秀長に太閤への取りなし(仲介)を頼み、その恩恵に浴した。もし秀長がもっと寿命を有していたら、豊臣家の天下を永続せしめたことが、あるいはできたかもしれぬ」

秀長が長生きしていたら文禄・慶長の役(天正20/1592年〜慶長3/1598年)を抑制でき、また秀次粛清といった暴挙も歯止めが効いたかもしれないといわれるのは、こうした記録がある所以である。

もちろん歴史に"if"はないが、秀吉・秀頼のわずか2代で滅亡した天下人・豊臣の一族にあって異彩を放つ男、それが秀長といって良いだろう。2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、どんな人物として描かれるのか――秀吉・秀長2人の出自も含め、期待は尽きない。

参考文献

  • ・和田裕弘『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』和田裕弘(中公新書、2025年)
  • ・黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』(角川選書、2025年)
  • ・小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書、1985年)
  • ・柴裕之『秀吉と秀長 「豊臣兄弟」の天下統一』NHK出版新書、2025年)
  • ・呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書、2025年)
  • ・河内将芳編、日本史史料研究会監修『秀吉と豊臣一族研究の最前線 第一章「秀吉の出自はどういわれてきたのか 竹内洪介』(山川出版社、2025年)

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