豊臣兄弟の父を特定するのは難しい
『太閤素性記』の著者・土屋知貞は中々村の代官の孫だった。つまり土屋は秀吉の故郷の代官の娘に育てられ、かつ、その娘が秀吉と同世代と考えられることから、一定の信憑性ある史料と見られている。
それでも、間違いはある。たとえば秀吉の生年は天文6(1537)年でほぼ確定しているにもかかわらず「天文五年」と表記しているなどだ。
実父は木下弥右衛門、継父は筑阿弥で、秀吉と秀長を異父兄弟としているのも曖昧だ。
秀吉と秀長の父親を特定するのは、前述の通り秀吉自身が父について触れたことが確認できないため実に厄介なのだ。現時点では秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)が子の秀次の菩提を弔うために建立した寺の過去帳に、日秀尼と秀吉の父の戒名が「妙雲院殿栄本(みょううんいんでんえいほん) 秀吉公父」と記載されていることのみは、信憑性が高いと考えられている。
知られたくない黒歴史
過去帳によると、栄本の没年は「天文十二年」。『太閤素性記』にある「秀吉8歳のときに父が死去した」の記載と一致する。妙雲院殿栄本が秀吉の実父である可能性は高い。
ただし問題は、栄本が木下弥右衛門を指すのか、筑阿弥なのか、あるいは弥右衛門と筑阿弥が同一人物だったかは不明な点にある。
平成8年の大河『秀吉』に登場した筑阿弥(ドラマ上の名は竹阿弥)は弥右衛門とは別人物の継父であり、秀吉と不仲で、何かにつけて口論していた。この不仲説は『太閤素性記』に、「(秀吉は)筑阿弥継父と不合」と記されていることを受けた設定だろう。
一方、歴史家の小和田哲男は日秀尼と秀吉・秀長は同父だったとの見解を示しており(『豊臣秀吉』中公新書)、『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する柴裕之も同じ説で、「(弥右衛門と筑阿弥が)同一人物の可能性は強く感じる」と述べている(『秀吉と秀長 「豊臣兄弟」の天下統一』NHK出版新書)。
秀吉と秀長の父親が同じなのか異なるのか真相はいまだに不明だが、どちらにせよ秀吉の父は一時、足軽大将などを務めたものの、戦場で負傷したか病を得たかして帰農。だが、息子たちが幼年のうちに死去したため、大黒柱を失った家は困窮を極めた――というのが実情に近いのではなかろうか。
そして、それは秀吉にとって知られたくない黒歴史であり、生涯、そのコンプレックスに苛まれたと想像できるのである。
江戸時代に創作されたエピソード
豊臣の伝説は江戸後期の寛政9(1797)年に、新たな展開を迎える。『絵本太閤記』の刊行だ。それまでの史書とは異なり、挿絵をふんだんに使った物語性の豊かな「絵本」だった。
信長の草履を懐に入れて温めるやら、墨俣(すのまた)の一夜城やらの伝説が初登場し、大衆はその面白さに飛びついた。今も草履と一夜城のエピソードを史実と信じる人が少なくないようだが、すべて18世紀末に流布した創作である。
それらが広まる過程で、本年の大河『豊臣兄弟!』の主人公・秀長も知名度を増していったと考えられる。

