宮中に仕えたということは、天皇のご落胤である余地を含んでいる。おそらく関白就任にあたり、自らの価値を上げたかった秀吉の強い意向が働き、唐突に「秀吉=天皇ご落胤」の伝説が誕生したと見て良いだろう。
だが、現在では萩中納言などという公家は存在しなかったことがわかっており、完全な"創作"と確定している。また、『関白任官記』は秀吉の思惑が介在していながら、父親に関しての記述が一切ない――どうも父には意図的に触れたくなかった様子がうかがえるのである。
権威付けに必死だった
一方の「日輪の子」は、秀吉が諸外国に送った外交文書で、自らをそう称している。朝鮮・台湾・スペイン領フィリピン宛など複数の書簡に及び、自身は「神の子」であると、権威づけに必死だった姿が見える。これが『甫庵太閤記』に影響を与えたわけだ。
ただし、『関白任官記』が出自を高貴としているのに対し、『甫庵太閤記』は「農民出身の日輪の子」にすり替えているのが特徴だ。これは『甫庵太閤記』が執筆された時点で、すでに豊臣が滅亡していたため、ご落胤などと過剰に虚飾する必要がなかったからだろう。
こうして、豊臣は「農民の子」という説が定着していった。
寛永2(1625)年には、江戸幕府の旗本・土屋知貞(つちや・ともさだ)も『太閤素性記』(たいこうすじょうき)に着手し始めている。延宝4(1676年)まで約50年間にわたって執筆した聞書(ききがき/人から聞いた話)による秀吉の伝記だ。
「木下」の名字も謎が多い
『太閤素性記』は、秀吉の父を木下弥右衛門(きのした・やえもん)という、織田信秀(信長の父)の軍に付属する鉄砲足軽だったとしている。戦いで負傷した弥右衛門は尾張国中々村(なかなかむら)に帰郷して農民となり、妻を迎えて2人の子を産んだ。それが秀吉と、その姉(豊臣秀次の母)だという。
だが、弥右衛門は秀吉8歳のときに死去。そこで母は、同じく信秀の家臣で中々村出身の筑阿弥と再婚し、さらに2人の子をもうけた。秀長と、のちに徳川家康に嫁ぐ朝日(または旭)だ。
ここに、「木下」という名字が現れる。秀長・朝日といった、のちの時代の豊臣の主要人物も登場する。
ただし、この「木下」の名字も実に謎が多く、秀吉の妻となる、ねねの母方の名字を継いだという説や、織田家の家臣・木下雅楽助(きのした・うたのすけ)の配下となった秀吉がその名字を賜った(黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』/角川選書)など、見解はさまざまだ。したがって木下藤吉郎の「藤吉郎」がどこから来た名なのかも、はっきりしない。
また、『太閤素性記』に女性の名は記されていない。秀吉の母は「なか」という名が知られているが、これは後世、中々村から取っただけの可能性を指摘されており、実の名はわかっていない。

