宮中に仕えたということは、天皇のご落胤である余地を含んでいる。おそらく関白就任にあたり、自らの価値を上げたかった秀吉の強い意向が働き、唐突に「秀吉=天皇ご落胤」の伝説が誕生したと見て良いだろう。

だが、現在では萩中納言などという公家は存在しなかったことがわかっており、完全な"創作"と確定している。また、『関白任官記』は秀吉の思惑が介在していながら、父親に関しての記述が一切ない――どうも父には意図的に触れたくなかった様子がうかがえるのである。

権威付けに必死だった

一方の「日輪の子」は、秀吉が諸外国に送った外交文書で、自らをそう称している。朝鮮・台湾・スペイン領フィリピン宛など複数の書簡に及び、自身は「神の子」であると、権威づけに必死だった姿が見える。これが『甫庵太閤記』に影響を与えたわけだ。