12月14日に最終回を迎える大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「横浜流星が演じた蔦屋重三郎にはおそらく実子がなく、2代目蔦屋は血縁ではない人物が継いだが、本の版元としては長続きしなかった」という――。

幕府の弾圧を乗り越えた蔦屋

2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)の主人公は江戸時代後期の出版業者・蔦屋重三郎でした。重三郎を熱演してきたのは、俳優の横浜流星さん。重三郎は江戸の日本橋に店を構え、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭(滝沢)馬琴、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽といった才能あふれる戯作者・浮世絵師を見出し、その才能を開花させてきました。

しかし、田沼意次の政権が終わりを迎え、老中・松平定信による寛政の改革がスタートすると、重三郎の商売に暗雲が立ち込めてくるのです。徳川幕府は版元に対して出版取り締まり命令を下し、出版物の表現内容に対し、規制を強めてくるのでした。寛政3年(1791)には蔦屋が刊行した山東京伝の『娼妓絹籭』『青楼昼之世界錦之裏』『仕懸文庫』という洒落本が遊廓を題材とした猥りで不埒ふらちなものということで、摘発されます。京伝は手鎖50日、重三郎は罰金刑となりました(重三郎は財産の半分を没収されたとの見解もあれば、いや、そうではないとの異論もあります)。

弾圧を受け、蔦屋の寛政3年の刊行物は『吉原細見』(吉原遊廓の総合情報誌)1種、黄表紙4種、洒落本3種、狂歌本3種の合計11種と減っていきました(前年は21種)。その後、蔦屋は戯作者の過去の名作を改題し刊行したり、蔦屋から刊行された絵本の版権譲渡も行っているので、経営等で苦労している様が垣間見えます。

死去した年に描かれた蔦屋重三郎像
死去した年に描かれた蔦屋重三郎像、蔦唐丸(蔦屋重三郎)作、北尾重政画『身体開帳略縁起 3巻』寛政9年(1797)、国立国会図書館デジタルコレクション
蔦唐丸(蔦屋重三郎)作、北尾重政画『身体開帳略縁起 3巻』、寛政9年(1797)。重三郎は蔦唐丸のペンネームで黄表紙の文章も書いていた。死去した年に刊行したこの本の巻末には新年の挨拶に訪れた裃姿かみしもすがた、蔦屋の家紋を付けた蔦重が描かれ、「今年は執筆者がいないので、自らの作をお目にかける」という口上が記されている。

脚気が進行、48歳で死去する

しかし、そのような冬の時代の最中にあっても、重三郎は新たな才能を発掘しようと目を光らせていたと思われます。寛政6年(1794)に「謎の浮世絵師」として現代においても有名な東洲斎写楽の役者絵を売り出したこともその表れでしょう。写楽の活動は翌年始ですぐに止まってはしまうのですが……。

写楽との関係が終わりを迎えた頃、重三郎はそれまでに関係が冷え込んでいたとされる浮世絵師・喜多川歌麿の作品『青楼十二時』を刊行しています。浮世絵界に足掛かりを残しておくために歌麿と「復縁」したとも考えられます。

喜多川歌麿「青樓十二時 續・巳(み)ノ刻」(午前10時)
喜多川歌麿「青樓十二時 續・巳(み)ノ刻」(午前10時)、江戸時代・18世紀、東京国立博物館蔵、国立博物館所蔵品統合検索システム

ところがそれからしばらく経った寛政8年(1796)の秋、重三郎は重い病となります。重三郎の病は脚気かっけ(ビタミンB1が欠乏して起きる病気)だったとのこと。彼の病は本復することなく、運命の日、寛政9年(1797)5月6日を迎えるのでした。