わずか1年弱で絵師活動を辞めた「写楽」
東洲斎写楽は江戸時代後期の「謎の浮世絵師」として著名です。浮世絵師としての活動期間は寛政6年(1794)5月からの約10カ月。現存する作品は約140点ですが、前述の活動期間の後、ぱったりと新作を出さなくなり、消息不明となります。
これまで多くの人々が様々な説を述べてきました。それについては後述するとして、全ての写楽作品の版元となったのが、「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)の主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)です。重三郎と写楽が出会い、重三郎が写楽の画力に注目し、版元になったであろうことは想像がつきますが、両者の出会いが分かるような史料は残念ながら残されていません。しかし蔦屋による写楽の役者絵の初めての出版が前述の寛政6年(1794)5月であることは、2人の出会いについて解き明かす材料になります。
それはどうしてか。役者絵の売り出しには好機というものがあります。いつでも売り出せば良いというものではありません。好機の1つとして歌舞伎の顔見世興行が行われる時が挙げられます。この顔見世は歌舞伎の興行において最も重要な年中行事とされます。
蔦屋重三郎が仕掛けた役者絵プロジェクト
江戸時代、各劇場は俳優を毎年11月から1年契約で雇っていました。新しく契約した俳優を披露するのが11月より始まる「顔見世」です。顔見世に合わせて役者絵を売り出せば、普段よりも売れるという公算です。役者絵を売り出す次なる好機は、多くの人々で賑わう正月(1月)でした。
ところが前に述べたように写楽の役者絵の出版は5月。蔦屋重三郎はなぜ寛政5年(1793)11月もしくは寛政6年(1794)1月に写楽の役者絵を刊行しなかったのでしょう。推測するに11月と1月に写楽の役者絵を刊行するだけの余裕がなかったのではないでしょうか。そうしたことを踏まえると、重三郎と写楽がおよそいつ頃に出会い、意気投合したのかということが分かってきます。
寛政5年(1793)の年の末か、寛政6年(1794)の春頃に両者は出会ったと推測されるのです。当時、重三郎の関心は役者絵にあったと思われます。喜多川歌麿(「べらぼう」では染谷将太が演じる、以下同)に美人画を描かせた重三郎は、次は役者絵界に進出し、その覇権を握ろうとしたのでしょう。


