北斎をプロデュースした2代目
勇助は初代・重三郎が築いてきた人脈を確保していました。葛飾北斎は初代・重三郎よりも、2代目との関係の方が深かったとの説もあります(北斎と重三郎はそれなりに仕事をしていたとの異説もあり)。北斎は2代目のもとでは、狂歌絵本を描いたりしています。北斎は初代・重三郎の死から2年後(1799年)に狂歌絵本『東遊』を蔦屋から刊行。
その中には耕書堂(重三郎の書店)の様子も絵として描かれているのです。蔦屋で働く人々の姿、耕書堂で浮世絵を物色する武士の姿などが描かれています。喜多川歌麿と初代・重三郎は大河ドラマで描かれたように深い関係にあり(時に冷却期間もありましたが)、前に述べたように生前には「復縁」していました。歌麿は2代目のもとでも絵を描いており「山姥と金太郎」などが知られています。
山東京伝や滝沢馬琴も2代目のもとでも仕事をしているので、勇助はこうした作家たちとも良好な関係を保っていたのでしょう。ちなみに『東遊』で描かれた蔦屋の店頭にも、山東京伝の作品『忠臣(大星)水滸伝』が宣伝されています。同書は北尾重政が画を描いています。重政もまた初代・重三郎と共に仕事をしてきた仲でした。
日野原健司(太田記念館主席学芸員)は勇助について「希代のプロデューサーだった初代と才能を比べるわけにはいかないのでしょうが、人柄は良かったのではないでしょうか」と述べています(「『AROUND蔦重』20 二代目蔦重――敏腕プロデューサー亡き後の耕書堂」『美術展ナビ』)。
先程も述べたように癖のある作家たちとやり取りしていくには、人柄が良くなければやっていけない面もあるでしょう。もちろん、それは初代・重三郎にも言えることですが。ですから筆者は初代も2代目も人柄は良かったと考えています。ただ2代目には初代が見せたようなプロデュース力や、様々な作家たちを見出しその才能を開花させるという能力には恵まれなかったと思われるのです。
後継者は初代蔦重を超えられなかった
蔦屋は5代目まで続きますが、天保8年(1837)には『吉原細見』(吉原遊廓の総合情報誌)の株を伊勢屋三次郎に譲渡しています。初代・重三郎はこの『吉原細見』の編集や刊行で頭角を現し、ビジネスを展開してきました。その株を譲ったのですから、よほど経営に困窮していたのでしょう。
経営を好調のまま持続させていくことは難しいものです。初代・重三郎でさえもこれまで言及してきたように商売が順調な時ばかりではありませんでした。初代・重三郎は自分の後継者たちの経営を泉下からどのような想いで見つめていたでしょうか。



